光標


・すれ違う緑赤をテーマに書いたところがあるので切なめで重い話です。
 (対比として青黒はラブラブです。)
・社会人捏造と同棲設定があります。
・青黒にアブノーマルプレイ(SM)をにおわせる事後描写があります。







朝が訪れようとしていた。

硬いベッドの上で目を覚ました。成人した男と寄り添って眠るのには未だに慣れない。変に縮めていた肩や背中が重かった。緑間との新居にえらんだデザイナーズマンションの最上階は、壁の一面が直径3メートルほどの窓張りになっている。その大スクリーンのような窓の外で、夜明けの太陽が強すぎる闇を引き裂いて惨殺していた。柔く、融和するのではない。馴染めない夜と朝があくまで敵というように切り立ち、光と陰が鮮明なコントラストを作っている。
慰撫というには少し、暴力的すぎやしないか。赤司は誰にともなくそんなことを思う。
隣の男はまだ眠っている。それを確認してから、ベッドサイドの煙草を掴みベッドを降りた。煙草の紙とセロファンの安っぽい感触を気に入っている。何故なんだろう、それは自分でも分からない。弄び甲斐があるからなのかもしれない。ベランダを開けて外に出る。冬の空気を吸いこめば全身に鳥肌が立つ。夜明けの白光が鮮やかだった。自分が照らされているのか影になっているのかもよくわからないほどだ。
以前夜行バスに乗った時に見た夜明けを思い出す、あれはずいぶんうつくしかった。こんな情景が毎日訪れているなんて知らず、日常を過ごしてきた自分をひっぱたきたくなるくらいには。しかし、たまにだからこそ良いものに思えるのかもしれない。煙草を一本出して、手摺から身を乗り出しながらそんなことを考える。
日常として過ぎればきっと、10カラットのダイヤモンドも路傍の石になり下がる。はたしてどちらが良いのだろうか。所有してしまったら色失せるものに思いを馳せながら火を点ける。
「恋人」はまだ起きてはこない。きっと夢を見ているのだろう。俺を要れずに、ひとりだけで。赤ん坊のようにあどけない、男の寝顔を知っていた。


遠雷が聞こえていた。
連続する失意のなかを歩んでいる。脇にはごまんと墓標があって、その地を踏み固めて行くことを義務付けられていた。灰皿の上で燻る煙草が、ぶざまにひしゃげ小さな虫に似た灰を振り乱している。滑稽だった。深夜のファミレス、国道沿い、午前零時。雨音に混ざって耳に届く遠雷は聞いていて心地よかった。こんな人工的な有線放送が流れる店よりはずっとましだ。なにもこんなところで別れ話をしなくてもいいだろうと、赤司は恋人を心の奥で責める。彼と過ごした時間たちが刷毛でペンキを塗るように今という青い絵の具で塗りつぶされていく。希望がある青ではない。曇天のように陰鬱な、ビビッドカラーの青だった。何の気も芸もない、そんな風に別れを告げられる自分を、そんな風に別れる自分たちを、頭の隅で嘲った。
「いいよ真太郎」
割と滑らかに滑り出たひきつった言葉は、テーブルの上で砕けむこうの緑間の耳に届くまでにずいぶんと変質してどこにでもあるような響きになってしまったようだ。僅かに傷つく自分に気づく。下らない。最初から心なんて、繋がってもいなかったじゃないか。俺たちの間にあったのは信頼や愛情ではなく、理由のわからない許容と辛抱、折り合いと我慢、そんなものばかりだった。蛇が鎌首をもたげるように赤司は背筋をただす。胸を張る。緑頭の浮かべた傷ついた顔に怒りに似た感情を覚えながら言い放った。
「お前の幸せを願っている」


あやういほどのせつなさをたどっていく。耳にごつごつ当たるような旋律が恋しくって仕事用のPCで動画サイトを開いた。無数の人間が演奏をアップロードするウェブサービスで、その中でピアノ音源の検索をかける。あの深緑色の睫毛が、影を落とす、その景色をわりと気に入っていた。それに別れてから気がついた。徹夜明けの頬には髭がざらつく。健康管理は人間としての基本事項で、それを怠るのは赤司家の人間に相応しい行為ではない。わかっている。わかっていてそれでも、前倒しになる予定というものがある。それは俺の罪ではない。煙草をくゆらして灰皿に押し付ける。無駄にだだっぴろい事務所の窓をちらりと見やると、丁度あの夜明けが訪れていた。あんまりな白光に息をのむ。度を外しているような鮮やかなモノクロだった。おろされたブラインドが救いだ。のんだ息をゆっくり吐き出して、ネクタイを緩める。わずかに汗のにおいが立ち上って顔をしかめる。七時に事務所を出る前にシャワーを浴びなければならない。流れてきた旋律は何だかひどく柔らかな弾き方で赤司の指はすぐに再生を止めた。こうではなかった、あの、たたきつけるような演奏が良い。いかにも無機質で不器用な。静物のような美しさ。
お前には黒田鵬心のことばがよく似合うよ。茜さす音楽室で言ったことを覚えている。彫刻は氷れる音楽なりと。そうして怪訝そうに顰められた眉を、そのすがたを、彫像のようだと考えていた。


凍っていく。たまさか最果てにヴァルハラの存在があるとして一体そこまでたどり着こうとする人間がどれほどいるだろうか。まあそんなにいないだろうと、雑な結論を下して緑間はマフラーを巻きなおした。冬の朝のこの張りつめた空気はいったい何だろう。嫌いではない、むしろ好ましいものだけれど。きっと光が綺麗すぎるせいなのだ。
脇に並んで電車を待つ男に視線をやった。赤というより、ピンクに寄った色に見える。彼はさむい、と小さく言って掌をすり合わせる。話を戻せば、この男は大真面目に最果てを目指している。ほとんど生きている限り続く永続的な航海を、生まれたときからの義務だとして割り切って生きて行こうとしている。大層なことだ。駅のホームはふきっさらしでそれは寒いに決まっていた。
「ねえ緑間、このまま、」
その男はふと俺を見上げて言葉をつづけた。とち狂ったとしか思えなかった。
「…馬鹿なことを言うんじゃないのだよ。朝練に俺たちが来なければ困るのはあいつらなのだよ。体育館の鍵はお前と俺が開けることになっているのだから」
全くお前らしくもない。思いついたことを思いついた順番に一気に言って眼鏡を上げた。赤司はふっと笑って緑間は真面目だねという。二度目の馬鹿なことを言うのじゃないのだよ、を発す羽目になった。
「俺がマジメならなんだ。お前はオオマジメか」
「そんな、動物の名前じゃないんだからさ」
まだ同じ部活になって三月もたっていない。それでも毎日顔を合わせているのだから、なんとなく見えてくる傾向もあるというものだ。赤司がこんなふうに笑うのは珍しい。赤司は背が低くいつも俺を見上げる。その顔のつくりはひどく幼く、時折しどけがないほど可憐に見えることがあった。
「でも――」
彼はまた言い募る、笑えない冗談を繰り返すとは、赤司征十郎とはそういう男であったろうか。眼鏡を押し上げてくだらないと一蹴する。
「少し現実的に考えればわかるのだよ。青峰や紫原は困るだろう、先輩たちは怒るだろう。無断欠席などすれば両親に連絡がいく。親に言われて一番困るのはお前じゃないのか。赤司」
カードを突きつけるように言えば赤司は黙ってうつむいた。つむじだけは白くそこを見つめる。彼のつむじを見ることは多かった。
「そうか」
言った言葉をかき消すように電車の到着を予告するベルが鳴る。下がるのだよ赤司と、白線からはみ出るように立っていた彼の背中に声をかけた。



(こわい)
釣瓶を辿っていくような悪夢をいつまでも見ていた。さむいよ、しんたろう、言えば、なんだと帰ってくる掌。真太郎は確かに優しくて、受け取る証はやっぱり愛のように思えた。ああ愛なんて、そんなの、知らないやつが語る権利があるのか。ホットミルクをつくるのだよ。言って離れてゆく背中を、寂しいようなもどかしいような、いやなような幸福なような、複雑な気持ちで見送っていた。それでも、白い湯気を纏わせて帰ってきたその人は見たこともないくらい優しい顔をしていて、離れた距離もその代償かと思えたのだ。
「ありがとう」
「礼などいらないのだよ」
俺とお前はいっしょに住んでいるのだから。ふってくるくちびる。建築には耐久年数というものがある。やはり使っているうちにがたが来て、毀れていくものなんだろう。あの頃の俺は愛についてあんまりにも無知で、その耐久年数も、倹しく崩すこともわからないでいた。
「真太郎がいてくれてうれしいよ」
あたたかな子猫のような温度のそれを受け取った。優しい彼は僕が猫舌なことも覚えていて、余ったチョコレートをひと粒落とす甲斐性も持ち合わせていた。そんなものをいつ育んできたのか。青葉のようなみどりを眺める。
「俺もお前がいてくれてうれしいのだよ」
薄暗い照明のなかで頬にさすその赤を俺のものだと、そんな勘違いをしていた。


思慕も愛慕もじゅうぶんすぎるほどよく呑み込んでいる。
「青峰くん」
言って名を呼べば、んあ?と返される声が耳朶をうつ。その快さについほくそ笑んでしまってから、黒子はいけないと頬を引き締めた。
「コンビニ行きませんか」
「コンビニなあ」
おなかすいたでしょう。言えば、お前もなと笑交じりの声が返ってきた。万年床、六畳半ワンルーム、彼の下宿だ。ボクは手足を拘束されてその平べったい蒲団に横たわっている、そういうプレイ用の重い手錠と足具だ。ついさっきまで小一時間、痴態を繰り広げていたボクたちは、しかし今はもう事後の気怠さのなかにいる。テツう、言って付けたままの首輪から延びる鎖を、携帯をいじりながら彼は片手で引く。あ、と微かに声が出て、彼の方に体が近づいた。
「お前」
またちょっと尻ちっちゃくなってない? 言って黒い腕が伸びてくるのを、さっきさんざん揉んだでしょうと退けた。ちっ、と軽やかな舌打ち、こみあげる笑みにゆがむ顔。セックスパートナー、ではなく。愛し合う二人として、彼とこういう関係を築けたことにボクはひどく感謝している。行くかあ、と言って彼は、炬燵の上にのせた財布を取り上げてジーンズの尻ポケットに突っ込む。鍛え上げられた上半身の筋肉はボクが逆立ちしてもつけられない類のものだ。憧れと羨望と嫉妬、すべてを込めてそれを眺める。
「行くんなら準備しろよ。まさかその恰好で行くんじゃねえだろうな」
「まさか」
いくら何でもそこまではと否定した。被虐趣味はボクのほうで、青峰君にはもともとそういう趣味はなかった。カミングアウトした時の事をよく覚えている。購入していた小道具たちを取り出せば、彼は本当に度肝を抜かれた顔で、っはああ、とうなった。その反応が面白くてボクは1年に一度くらいの爆笑をしたのだった。
「まあそれもそれで、いいけど?」
「よくないですよ、つかまりますから」
ボクの仮性包茎をついでのようにつっとなぞって青峰くんはいう。お前はほんと、何かどこもかしこも白くて淡いよ。そんな歯の浮くセリフを性器をなぞりながら真面目くさって言われてもどうしていいかわからない。離れてくださいと言って、ゆるやかに勃ちあがりそうなそれに気づかれる前にパンツに収めた。部屋に入るなりすぐにもつれこんだから、衣服は玄関のあたりに脱ぎ捨ててある。手足の拘束を外して取りに行こうと立ち上がると、どすんと青峰くんが後ろからかぶさってきて、なすすべもなく倒れこむ。
「〜〜〜っ!」
「お、ワリ、テツ、どっかぶっけた?」
「ふっ…ざけないで、ください、もう」
「だってなんかお前マシュマロみてーで可愛いんだもん」
「それって…ほめてないですよね。ほめてないですよね!?」
「んん?ほめてっけど」
遠慮のないすこし荒れた唇が降ってくる。さっきさんざんしたじゃないですか、言って、押し返す腕にしかし力は入らない。あたりは一面あふれかえる幸福の海で、彼の青さに目がくらみそうだ。ボクの水色と彼の青を併せれば、世界の果てまで続く水平線がつくれるような気がしてたまらない。そんなことを言えば頭でもおかしくなったかと目をむかれるのが落ちだろうけど、ボクを詩人にするのはひとえに彼の力なのだった。腰に乱暴に回された手の硬さに息をつく。胸に抱きしめられて、少しだけ汗のにおいのまじったそこが一番落ち着くとばかりに深呼吸する。


何度目かの恫喝が頬をかすめて飛んで行った。怒っている。ああこれは、怒って、いるな。流石にものを投げられたら避ける自信がなかった。これはバスケとは違う、そもそもリーチもタッパも違うのだ。落ち着け、言ってもその声は彼の怒号に比べれば随分と小さく、断然非力だった。堂々と翳したつもりだった掌が、しかしなんとも脆い仕草の成れの果てでぞっとする。
「みどり、」
「うるさいのだよ!」
もうそのなんでもわかっているような声を聞くのはうんざりだ!
ガシャンとマグカップが割れた。何だかもう、何だろう、もう驚きを通り越して笑いだしそうになってしまう。こいつがこんなふうに感情を露わにするなんて。怒りで震えて、嫌悪で声を揺らしているなんて。 原因は何だったっけと赤司は思う、原因は、そう、本当に大したことのないことだったのだ。なんたってこんな広い快適な建物だ、駅からだって徒歩三分の新築で、東京を見下ろせる絶好のデザイナーズマンションだ。キッチンだって広い、使うのはほとんど赤司だけれど、高機能なオール電化のシステムキッチンはこれ以上ないほどに清潔で美しい。緑間が必要ないというからやめたのだが、赤司としては何ならハウスキーパーを雇ってもいいくらいに考えていた。しかしそこで上演されているのがよりにもよってこんな劇とは。考えるだに皮肉である、自分がどんなに知恵を絞って選びぬいた最高のセッティングでも、肝心の彼がこうではもはや何の意味もないだろう。
「お前のその顔をもう見たくない!」
緑間の心情を図りたくてその端正な顔を眺める。明らかに緑間は怒っていた、赤司には原因もわからない何かにひどく怒っていて、過剰だと思う、しかしそう見えるのは赤司に彼が怒る理由がわからないせいで、妥当性が明らかにされれば納得するのかもしれない。さて肝要なのは、これほどまで彼を激怒させたのは自分であるはずなのにスイッチを踏んだことにすら気づいていなかったということで、これは由々しき事態ではないかと思う。両者の価値観の相違を反映しているような、そんな気がする。今後の自分たちの二人の関係に亀裂をいれてしまう可能性があるなとおもう。しかしさりとてなんの打開策も頭には浮かばなかった。相手が自分にわからぬところで激怒している。それは理解している。しかしわからないまま謝るのも違うだろう。さりとてこっちがキレてみせたところでどうしようもない。
「――すまない…?」
しかし取りあえず口に出してみることにした、それ以上の方策が思い浮かばなかったからだ。しかし語尾には何だか自然に疑問符がつき、さらに彼の怒りを買う結果になってしまった。出ていけ出ていけ、このままでは俺はお前を殴りかねない、そんなことを言うから、殴ればいいお前の気が済むのなら、といえばふざけるなとまた怒号が飛んで、赤司はとりあえずかけてあったコートと財布だけを掴んで家を飛び出すことにした。


甘い唇を貪った。赤司はいつもながらの落ち着いた風情で、ふぞろいな赤と金の眸で、図書室の窓際に立って部活の資料をめくっていた。彼は珍しく紫原から貰った飴玉を口に含ん でいた。頬を膨らませてそれを転がす赤司の姿は思うよりはるかに幼くて、行けないと思った時にはもうだめだった。こま送りの映画を観ているようにシーンが過ぎて、気がついた時にはこちらに気付きもしていない彼の腕を引いて、振り向いたその唇を奪っていた。一瞬赤司は目を剥いて、焦ったように大きな眼を周囲に配る。しかし、人気がないのを確認すると、かえって自分の手を緑間の背中に廻してきた。中学の上履きをつけた脚が背伸びのために伸ばされる。彼のおずおずとした動きが緑間の中の自分でもわからない何かに火をつけた。苺の甘い味がつたわってくる。香はむせかえるくらい甘くて息が詰まった。上品に伸ばされた赤司の髪に無骨な手を差し入れ、もう片手で腰を支えた。お互いの身長差は大きくて、双方が気を遣わねばひどく容易く崩れるバランスだ。彼のために腰をかがめる、その角度を覚えてしまいそうだった。


胸に飛び込んできた体温に驚愕する。
緑間は夜明けに鳴ったチャイムに応じて玄関先に出、カメラで客人がこの部屋の主だと確認した。何故夜明けにチャイムにこたえることができたかといえば、自分だって一睡もせずにいたからに他ならない。
彼の帰りを待つ間、赤司と一緒に選んだ時計の音が、一刻一秒を罪悪感と共に胸にたたみかけてゆくようで溜まらなかった。喉のあたりから胸にかけて吐き気がする。赤司といてからいつもこんなだ、と緑間はだだっ広いリビングで自嘲気味に考える。割れたカップも皿も倒した椅子も未だそのままだった。あいつにしてやれないこと、してしまったこと、教えてやれないこと、思いつかない言葉と伺いしれない感情たち、歯がゆさのあまり自制もきかず怒鳴ってしまう。今回は手すら出してしまいそうで恐ろしかった。同棲中とはいえ、同居人に手を上げてしまったらそれはDVだ。彼に愛を教えてやるつもりでいた。教えてやれるつもりでいた。しかしそれは可能なことなのか。この俺があいつに対して何をしてやれるというのか。将棋だってそうだった、バスケだってそうだった。いつも辛抱溜まらず先走り、あるいは後手後手に回って致命的なミスを仕出かすのはいつも緑間ので、赤司はいつだってその冷えた眼 (まなこ)で、涼しい顔で、緑間から唾棄すべき悪手を引き出そうとしていた。そのことを考えると腹が煮えるようだ。緑間は赤司と出会うまで自分のことをひどく高く評価していたのだった、十代特有の全能感も手伝っていただろう。誰よりも高い背丈、学校の成績はいつも一番だったし、ピアノだってバスケだってなんだって、周囲の奴らよりも余程上手かった。神童と呼ばれたことすらあったのだ。それが、あいつが。あいつが!
あいつは俺に敗北をおしえてくれなどとのたまう、だが俺だってそうだ、彼とあってから自分は初めて、敗北だとか格の違いだとか生まれついての才能だとか、そんなものを知った。そのうえで赤司は表情一つ変えずに、奮起する緑間を完膚なきまでに叩きのめした。
中学一年生の夏も終わりには緑間はもう、彼に対しては敵愾心と共にやむにやまれぬ憧憬を持ちあわせていたように思う。赤司の趣味が将棋だということが分かってからは、二人空き教室に忍び込んでは盤を挟むことになった。 赤司に負けるのは癪ではあったが定例と相成り、屈辱で眠れぬ夜はなくなっていた。 いつもどこか遠くを見ているような聡明な男の傍で過ごす時間は決して悪いものではなく、そしてそこから止める暇もなく変質していった時間のことを緑間はもう仕方なかったものだと思っている。あるのは現在(いま)、自分が掴み取ってきたのはこの未来だ。
それが。この始末である。割れたカップ、恋人が出て行った後の椅子、彼の金で住むマンション。
吐き気くらい催すというものだろう。情けなくしゃがみ込んでカップを拾った。ちくりと利き手の人差し指の腹が痛み、赤い血が流れ出る。あいつはいったいなんだって赤なんて髪の色をしているのだろう。こんなもの、生まれながらに運命づけられているに等しい。大の男が床にしゃがみ込んで嗚咽をあげるなどぞっとしないけれど、今の緑間はそうするほかになかった。
俺はいつだってあいつに優しくしたかったのだ。
いくらあいつが底のしれない男でも、色づいた頬、さりげない語り口、柔らかに落ちる前髪の陰り、そんなものにばかみたいに踊らされていたのは俺だ。砂をかむような歯がゆさを、少し手が触れるたびに揺れ動く感情を、恋心に昇華して、恋心でも収まりきらぬ気持ちにいつだって説明を求めていた。俺はきっとあいつに愛を教えてやりたいと思っていた、あいつが俺に敗北を教えたように、俺のどこかを確実に赤に塗り替えたように、彼の辞書のその項を俺で染めてやりたいとそんな埒もない幻想(ゆめ)を抱いていた。
「赤司――」
「緑間」
そして柔らかくあたたかな生き物が冷えた外気を携えてここにいた、熱く生々しい吐息を感じた。白い朝日がふたりを包む、緑間は部屋の中に赤司が連れてきた光を眺め目を細める。祝福されているとも見守られているとも思えなかった、旭日は鮮やかではあったが逆光のコントラストは強すぎた。
「あかしか」
帰ってきた野良猫を撫でるようにしか、その体を抱きしめることが出来ない。俺達が一緒にいるのは偶然でも必然でもなくただただ奇跡と等しい妥協と共和を繰り返している。
「あかし」
伏せた顔を中腰になって無理やり覗き込めばはっとするほど美しい赤が瞬いている、そういえばこれを、くり抜くなんてほざいていた時もあった、あれはもう四年前のことで、あいつに俺は負かされたのだ、ああ全く苦い、にがい記憶だ赤司、お前はなんだっていつだって思い通りにならないのだ。自然と指が伸びてそこから零れ落ちる涙を拭った、滴は瞳の赤がうつって血のようにもみえそれはひどく耐えがたい景色だった。
「しんたろう」
赤司の唇が自分を識ることを、涙ながらに呼ばうのが自分の名であることを、何処か陶然とする思いで聞いていた。


結局だいぶ時間が経ってから部屋を出ることになってしまって(なにをして、とは言わないけれど)、ボクと青峰くんは結局近所のファミリーレストランに行くことにした。そこなら一番手っ取り早くはらを満たせるから、というゆえの判断だ。その日は猫が笑んだときの目のようなほそい三日月が出ていて、それがボクの心をどうしようもなく浮き立たせた。夜中特有の解放感がボクたちに魔法をかける。おおっぴらに手を繋いでふざけあい、愛していると言い合ってプロポーズの真似事をしながら歩いて行った。
「あ」
最初に気づいたのは青峰くんだった。夜半も過ぎたファミレスに客はすくなく、その中でぼつねんと四人席に一人座った赤い髪の人物はとても目立った。テツ、言ってパーカーの袖を引っ張られた。視線を転じた先にいたのはつくねんと座った彼である。ボクは目を丸くして赤司君、と叫ぶ。最もここにいそうにない者を知り合いから選べといわれたら、間違いなくその名をあげただろう。驚いたようにこちらを向いたその人は、薄いカットソーの上に前を開けたコートを羽織って、チノパンにクロックスといういでたちで、いかにもわけありで飛び出してきたという感じだ。ボクと青峰くんは目を丸くする。そんなことがあの赤司征十郎にありうるだろうか。
「お前たち、どうしてここに…」
ウィンターカップで気づいたことが一つある。彼は目の色のせいで泣いているかどうかがわかりづらいのだ。その代わりうっすらと目じりが赤くなる。それを、あの勝利で知った。ボクはひと目で彼が泣いていたと見て取って、その事態の異常さに動揺した。カットソーからにょきりと飛び出した首は驚くくらいにしろい。青峰くんが珍しいなおい、と脳天気に声をかけて迷いもなく彼の向かいに腰掛ける。赤司くんはさりげなく手拭きで目を拭い涙の跡を消した。
「お前この辺にすんでるの」
「ああ、3ヶ月ほど前に近くにマンションを借りたんだ」
「マンション!」
出たよブルジョワ。青峰くんが笑うとあかしくんも合わせるように眦を下げた。あの冬から彼はよく笑うようになった。もともとの人格である方はにこやかではあったのだが、どこか張り詰めた雰囲気がなくなり、余裕ができたように思う。自分にも他人にも厳しすぎるくらい厳しいことには変わりないが。良い変化だ。一度自分に負けたことは、彼を勝利に縛り付けられることから解放した。赤司という家の呪縛血の呪縛は彼に一生付きまとうだろうけれど、今のこの人が「僕」以外に人格を生み出すことはないように感じられる。黒子は自分の才能を見出した男に不幸になって欲しくはなかった。
「大丈夫ですか?」
青峰がドリンクバーを取りに立った間にそう尋ねた。赤司は疲れた顔をして窓の外を見ていたが、それで黒子のほうを向いた、
「気づくか。さすがは黒子だね」
赤司は肩をすくめる、彼は黒子に対して甘かった。
「いえ、あおみねくんが超鈍感なだけで、普通は気づきますよ」
いえばそんなに露骨だったかなと赤司は微笑した。からからとドリンクの入ったコップのストローを回しながら、彼はふいと、同居人と喧嘩してね、と言った。同居人、その言葉が黒子の腑に落ちてくるまでにはずいぶんと時間がかかった。それは、それは。
言うまでもなく、赤司は経済的な理由なんかで他人とルームシェアする必要もないし、きっと性にもあわない。だとすれば、同居は彼が望んでやっているということになる。そして、そうとすれば。
「…犬も食わないってやつですか」
「そんな」
甘いものではないんだ。殴りそうだから出て行けといわれたよ。かろく笑う、しかし黒子はその言葉にまた度肝を抜かれた。キセキの世代の中では黒子に次ぐ背の低さだといえど、彼の身長は平均以上だし、体もしっかりと鍛えている。そんな彼に、殴るなんていえる女性が果たしているものだろうか。
「……え」
「いや、うん」
赤司はあいまいに視線をうつろわせた。
「今は、緑間とね、同居していて」
「ええっ!?」
「はあ!?」
黒子と、ちょうどコーラの入ったグラスを持って戻ってきた青峰の声は同時に重なった。
それから赤司は事情を説明し始めた、その弱音のような細い声を黒子は信じられない思いで聴いた。取り残された猫のような、そんな顔をしないで欲しい。いつも強気な顔をしているからわからないのであって、ひとたびその猫に似た顔がさみしげに歪めば、それがひどく似合うことに気付かされる。嗜虐欲というのだろうか、実は他人のそれをよく刺激する。
「いいんですか、こんな時間まで。心配してますよ、緑間くん、きっと」
「心配、」
されても困るんだと、赤司くんはそう言って喉元を抑える。自己嫌悪は吐き気がする。こんな思いを知ったのはあいつのせいだと独りごち、怒りの情を顕わにした。
「困るってナニ」
青峰くんが言う。彼は僕の隣で半眼になって赤司君のはなしを聞いていた。赤司君が虚をつかれたように目を丸くした。
「一緒に住んでる奴が喧嘩してこんな夜中に薄着で部屋飛び出して、それが心配で何が悪いんだよ」
青峰くんはぼくの頭に手を置いた。躊躇いのない指だった。赤司くんはその手を眩しいものを見るように目を細めて眺める。まったく光に纏わる手であった。
「心配されたって戻れやしない、そうだろう、変に絡みつくあいつの手を、しかし、どうしてやればいいのか解らない。俺にはどうする資格もない」
「資格が要るかよ」
馬鹿らしいと青峰くんが吐き捨てる。赤司くんは青峰くんと僕の世界をふと鑑みる、そして、やはりその眩しさに顔を歪めた。あ、泣きそうだなと思う。
「お前と緑間は違うし、俺と黒子も違うんだ、わかるだろう。わかってくれ」
彼の指が、途中で買ったのか真新しい煙草の箱を握る。煙草なんていつから吸うようになったのだろう。完全無比な赤司征十郎と煙草は、全くそぐわないようにも思ったし、裏腹に馴染んでいるようにも感じられる。
「好きな気持ちは同じだと思うけどね。そりゃIQは桁違いかもしれませんが」
「できるなら、俺だって」
ぐしゃりと赤司君の顔がゆがむ。こんなことを繰り返している、彼は言って、そして、お前は馬鹿だと、言放つ。そんなふうに優しく愛せたら、触れたら、苦労しないのだと目元を赤く染めていう。


「どこに行く?」
ひたり、寝台から抜け出そうとした赤司の腕を掴んだのは寝ていると思っていた緑間だ。ねむそうにこごった発音が、逞しい体が、胸から逃げ出した暖かな身体を捕まえる。ついさっきまで、咬みつくように愛し合って、畏れるように抱き合っていた。
「水を」
喉が渇いたものだから。赤司が言うと、緑間は眉をしかめてから、俺が行こうと息を吐いた。え、と言った時には緑間はもう起き上がって、大ぶりの体を寝台から立ち上がらせていた。いいよ、といいながら、この男が言い出したら聞かないことを知っていた。窓の外を見ると夜明けが来ていた。闇の裾野が明るくしらみ始めている。
「あさだね、」
言うと、緑間は眼鏡をかけていない翠を細めてそのようだなと言った。パジャマの下だけを履いている。むき出しになった上半身は同じ男ながら惚れ惚れするほど逞しかった。
「みどりま」
「ついてこなくていい、お前は寝ていろ」
「いやだよ」
二人がいい。赤司が言うと、緑間はおどろいたように目を見開いてから、ならついてこいと大きな掌で赤司の頭を掴む。偉そうだ。赤司が纏っているのは緑間のパジャマの上だけで、甘えるように身を寄せた。
「黒子と青峰にね、会ったよ」
「青峰と黒子?」
その声がワントーン下がったことを、赤司は密かに愉快に思う。うん、いいながら緑間の歩幅に合わせて歩みを進める。システムキッチンは散らかっていた、緑間が不器用な夜食を作ってくれたからだった。シンプルなレタスとハムのサンドイッチだったのだが、この男にとってはなかなかどうしてむずかしいらしい。出しっぱなしのナイフやバター、ちぎった後のレタスに食パンの耳。それらを新鮮な思いで眺める。緑間は並べてあったグラスを手に取って蛇口をひねる。片手は赤司の指と絡めたままで、そのことをぼんやりと嬉しく感じる。
「さっきか」
「そう、幸せになる方法をね、聞いてきたんだ」
「そうか」
「青峰がね、あまりにもまっとうなことを言うものだからおどろいてしまった」
「参考になったか」
「いや、正直、あまり」
あてられてしまっただけかもしれない。いうと緑間の表情がふっと緩む。二メートル近い身長の男は、己のグラスを掴んだ手を見下げている。
「それでもお前を帰ってくる気にさせたのだからな」
それは皮肉のようにも聞こえたし、自嘲のようにも響いた。赤司は緑間の顔を見上げた。
「俺は」
きゅ、と蛇口がしまって水音が止む。緑間の声は断固として響いた。
「幸せになる方法なんぞ知らん」
堂々とそんなことを言う恋人に思わず赤司は笑ってしまう。俺は女じゃなかったし、彼に幸せにしてもらおうとも思わなかった。俺が彼を幸せにしたいとは思っていたけれど、しかしそれはどうやら難しいことらしいと、積み重ねてきた歳月で分かっていた。目を瞑ればよぎる思い出、そのどれもにどこか朝日が付きまとっていたように思う、早朝の駅のホーム、ピアノの旋律を虚空に聞く仕事場、悪夢と優しいホットミルク。図書室でのキスと放課後の逢引。どれもこれもが割れたガラスのようだった。逆光を弾いて、どぎついぐらいに輝いていた。
「それは俺もだな」
応じた声は意図せず柔らかいものになった。自分でそれに戸惑ってしまう。緑間は俯いたままだ。
「ただ、お前と居たいのだよ。俺はな」
ひどく言いにくそうな告白だった。
「うん、俺もだよ、真太郎」
不器用な愛情を繰り返して二人ここにいた。ガラスは明日砕けるかもしれなくて、それは少し恐ろしかった。つながらない思いも厭わしい感情も山ほどあって、それでも捨てきれずにいる、あきらめきれずにいた。
「風邪をひく前にさっさと飲むのだよ、赤司」
「…ありがとう」
礼などいらないのだよ。あの浅黒い男より広く美しい掌が頭に降ってくる感触は確かにいとおしかった。差し出された水面にゆらゆらとたゆたう光に思わずほうと息をついた。



題名は「こうひょう」「みつしるべ」どちらでも。
(2015.12.11 pixivに投稿
 2016.1.1 サイトに転載)
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