完璧な構想だった。

俺には懇意にしているスタジオのオーナーがいて、彼に頼めばこのクリスマス前の貴重な時期にでも、グランドピアノ一台と一番良い音響の部屋を貸してもらえる。それを仮に午後八時からとしよう、それは最後の大詰めだ。その前に一流のフレンチレストランで食事を取る。午後三時の頃待ち合わせには時間があくから、その間は映画でも見ればいいだろう。この間おは朝で特集していたクリスマスの恋人たちにぴったりのラブストーリーがよさそうだ。それか百貨店でも寄って、財布やネクタイピンや腕時計なんかを見てもいい。赤司は勿論そんなものは見飽きているくらいだろうが、以前行った時百貨店やデパート自体は、なかなか来ないといって楽しそうにしていた。さて、レストランのあとはいよいよ大詰めである。予定ではシャンパンでほろよいになっている赤司の手をとり、俺は慣れたように通りを歩む、歩み、そこから慣れた様子でスタジオへ赤司を連れて行く。そして俺は、恋人の前で、ショパンのノクターン第二番変ホ長調を弾きこなすのだ。赤司ならきっと肘掛け椅子に腰をかけて俺の演奏に聞き惚れてくれるだろう。もしかしたら俺と連弾したがるかもしれない。それも悪くなかろう、きっと最高の思い出になる。そうやって最後に赤司と俺は寄り添いながらタクシーに乗り、緑間が予約した海辺の夜景の美しいホテルへと赴く。
そして、そして、そして!
期待に胸がわなないた。用意した指輪の相場はネットで調べたとおり月給の三ヶ月分で、そんなのあいつにとっては端金なのだろうけれど、それでも緑間としてかなり気を使って選んだのだった。石はレッドクオーツ、あいつにはおあつらえ向きの色だろう。
思えばここ数年間、本当にいろんなことがあったのだ。
中学時代は尊敬と敬愛の区別もつかず、ただ淡い恋の予感に戸惑っていた。そのうちに赤司はもうひとりの赤司に変わってしまい、盤をはさんで向かい合うこともなくなった。そして高校に上がった一年目の冬、自分は赤司に負け、赤司は黒子と火神に負けた。あの瞬間の胸が焦げるような喜びと悔しさは今も胸に焼き付いている。もちろん自分ではない男が赤司を負かしたということに忸怩たる思いはあった。だが、誠凛があいつを負かさなければそこから始まった緑間と赤司の関係もまたなかったのだ。その冬から緑間たちは再び連絡を取り合うようになっていた。想いを告げたのはそれから更に2年後だった。大学進学を控えていた赤司が、京都に残るか東京の大学に進むかを迷っていた時期であった。俺はお前と一緒に居たいといった。その言葉に偽りはなく、そして今も緑間は同じ気持ちでいる。赤司は東京の大学に進み、緑間も都内の医大へと進んだ。そこから三年、つかず離れず、大なり小なり行き違いや喧嘩はあって幾度も別れを覚悟した。それでも結局は一緒にいる。自分と彼とはそういう間柄であった。
そして今年。彼の23回目の誕生日。自分はストレートで国家試験に合格し、来春から働くことが決まっていた。けじめをつけるなら今だろう。勿論本当に入籍は出来ないし、彼も自分も長男だということを考えれば養子縁組も不可能だ。しかしそれでも、緑間は赤司との関係に恋人という不明確な表現ではないきちんとした形を与えたかった。言うことは決まっていた、一緒に住もう、赤司。これだけでいい。そう言ってこの指輪を差し出せばきっと赤司は分かるだろうし、もしかしたら泣き濡れながら頷きさえするかもしれなかった。
緑間はほうとため息をつく。神経を落ち着かせるため喫茶店の窓から外を眺めた。街は来るべきクリスマス一色で、一面が赤と緑に覆われている。彼と自分の色だなどと考えるほどのぼせてはいないけれど、日本中がそうやって恋人たちのイベントと浮かれ騒ぐのはどうやったって悪い気はしない。自分と彼を祝福している、どうにもそんなふうに思えてしまう。
(全く完璧な構想なのだよ)
緑間は思う。


仕方が無かった。
年末に向けての最近の忙しさは常軌を逸していたし、睡眠はおろか食事さえもろくにとれない日々が続いていた。巨額の金が動くビジネスのやりとりはやり甲斐もひとしおではあったが、それにもまして神経を削っていった。ただでさえ赤司の御曹司、親の七光りのお坊ちゃんであるという先入観で見られているのだからなおさらだ。一挙一動全てに気を張り、遣う言葉ひとつにも細心の注意を払わなければならない。家に帰れば帰ったで父の厳しい批判が飛んできた。針に糸を通すような細かい誤謬であってもあの人はよく見抜き、言葉や行為の裏の裏までをよく読んだ。俺に将棋を教えたのは父で、その水も漏らさぬような打ち方には舌を巻いたものだが、それは父親の働き方そのものだった。赤司家が何代もかけて積み上げてきた、信用と責任と莫大な資産が父の双肩には担われている。考えてみれば父は孤独な男なのだった。心を許せる妻もすでになく、大勢のビジネスの協力者は一歩間違えれば情け容赦のない敵である。
唯一無条件に信じ合えるのは同じ血を分けた息子だけだろう。なればこその厳しさで、なればこその叱咤である。幼い頃からそう母にも言われていた。問題はありません、支障はありません。年齢を重ねてさらに疑い深くなり慎重さを増した父にそう繰り返し言ってみせるのは骨の折れることではあったが、それが自分の義務であることも承知していた。
その日は三十分程であったけれど空きができたため、厨(くりや)に足を向けた。しばらく雪丸に会っていなかった。もうすっかり老いて競技馬としての義務は果たせそうにない。それでも雪丸と生まれたときに銘うたれた毛並みは健在であったし、その懐っこい性質も昔のままだった。赤司が軽く着替えて厨の中に入ると、雪丸はいち早く赤司に気づいて身を寄せてきた。厩舎番の老人も緩慢な動きで歩み寄る。
「…あとどのくらいだ?」
「早ければこの冬を越せませんでしょうなあ」
老人はこともなげにそう言った。そうか、応えて雪丸の鼻の前に手を翳す。濡れた鼻息の生暖かさ。子供の頃から雪丸に会いに通っていた厨の臭いは決して良い香りとは言い難いが、ささくれだった赤司の精神を落ち着かせる。
「ゆきまる」
答えなどせぬ動物の名前を呼んだ。問うようにこちらをのぞき返すその目は恐ろしいほど澄んで漆黒だ。長い睫毛が美しい。ゆきまる。もう一度呼んで赤司はその大きな体に腕を回した。
「あまり来られなくてすまない」
「征十郎様はお忙しいですからなぁ。そんなことは雪丸もわかっておりますよう」
長年の付きあいの厩舎番が呵呵と笑う。応じるように頬を緩ませて、赤司は雪丸の毛並みを撫でる。自分と同じ年に生まれた白馬に初めて乗ったのは五歳のときだった。真っ白な子馬に赤司は見惚れたものだった。腕時計が時を刻む。そろそろ行って出かける準備をしなければ、そう言うと、はい、またいつでも来て下さいと、老人は雪丸の手綱を引きながら微笑した。
厩舎を出て屋敷へと続く砂利道を戻りながら、赤司は緑間からの電話を思い出していた。誕生日、会えないか。深刻な様子に、厳しいかもしれないとは言えなかった。恋人と最後にあってからひと月近くがすぎていた。会いたいと思ったから、解った、とだけ言った。なんとか都合をつけようと。
緑間も赤司も大学生とはいえ、一介の学生が満喫するような自由はそこにはなかった。緑間は試験に次ぐ試験に、赤司は学業の間にねじ込まれる家の用事を熟すだけで精一杯で、気づくと会えないままこのくらい経っているのはざらだった。同じ都内にいるというのに不思議なことだ。あいにく赤司の誕生日は毎年忙しい時期にあり、学生時代から誰かに祝われたことはない。緑間と付き合いだしてからもお互いの都合がつかず、電話や手紙で祝われるのが常だった。母が健在だった頃は手作りのご馳走をつくってもらった記憶があるが、死後はクリスマスといっしょにされ、帰ってこない父親の椅子を見ながらひとりで食事を食べていた。そういうことを恨んだ記憶はない。誕生日なんてただの節目であって、子供の頃ならいざしらず、成人してから大仰に祝ってもらうまでもない。映画やドラマではまるで誕生日を一年で一番だいじな日とばかりに持て囃すが、そういう感覚に赤司はあまり馴染んでいなかった。祝うも何も既にここにいるのだからわざわざ騒ぎ立てることはない。そう思っているのに、しかし緑間の申し出を聞いて自然と頬が緩むのを止められなかった。記念日自体に意味はないけれど、その意味のない日に意味を見出して、あの朴念仁が会おうと言ってくれたことが嬉しかった。
だから。
本邸に向かう赤司の歩調は急ぎ足になった。一刻も早く事務仕事を片付けてしまいたい。俺ならできる、出来るだろう。そんな自分に対する過信があった。


駅前で赤司を待ち惚けていた。途上で売っていた花束をひとつ、間抜けにも抱えていた。五分前について辺りを見回せど赤い髪の人物はまだ着いておらず、携帯を取り出して到着の旨を認めたメールを送った。返事は来ないが、移動中なら致し方あるまいと結論づけて噴水のベンチに腰をかける。緑色の髪と目の2メートル近い男が花束を抱えて座っていれば悪目立ちするのは当たり前で、もうそんな視線にもどよめきにも慣れきっている。防寒は完璧にしてきたとは言え真冬の駅は冷える。冷えるから、近くの喫茶店で珈琲を買って来た。戻っても赤司はまだ来ていない。忙しい男だからなと思う。そして、そのまま何もしないで一時間が過ぎた。
携帯を取り上げて眺めてもメールも着信も来ていなかった。日取りを間違えてるのかと思って確認するが、たしかに今日は十二月二十日で、待ち合わせの十五時を一時間ほど過ぎていた。十六時、八分。電話をかけても、コールがなるだけで出る素振りがなかった。
赤司。
悪い予感が胸をよぎった。事故か、急病か、急な仕事か。赤司であれば急な仕事の線が濃厚だ。大丈夫だ、と緑間は自分に言い聞かせる。今日のかに座の運勢は一位で、ラッキーアイテムのホッカイロもきちんと防備してあるではないか。そう、今日は少し寝過ごして最下位を見逃したのだけれどー―。そこまで考えて、ふと今日の最下位は何座だったのかと疑念が湧く。11位は獅子座、10位はうお座、9位は乙女座ー―。順位を思い返す度に眉根が寄っていく。
緑間の記憶にあるおは朝では、射手座がどこにも入っていなかった。



断続的な機械音が耳に入ってくる。
久しぶりに熟睡していた、まだ眠りの中のような感覚のままで目を開けた。喉がからからに渇いていた。腕に違和感を覚えて見下ろすと、細い管が伸びていて点滴か何かの機械に繋がっていた。
(―――……)
自分は果たしてどこにいるのか。
自分が横たわっているベッドはパイプづくりで、明らかに普段使っているものではない。気だるさをこらえてぐるりと首を巡らすと、カーテンの仕切りの向こうに小さなテレビや、果物が乗ったサイドテーブルが見えた。電気は落とされて、廊下から差し込んでくる照明が視界を明るくしている。窓の外を見やるととっぷりと日が暮れていた。
赤司は額の上に手を当ててため息をつく、誰がど見ても病院の個室だった。記憶はどこで途切れたのか。確か午後五時、会議が長引き、私用で携帯を使うことも出来ないため、緑間に連絡がとれず気ばかりがせいていた。会議が終わってすわ直接駅へと向かおうとタクシーを捕まえようとしているところで、別件で進行中のプロジェクトの幹部役員と鉢合わせた。ああ赤司さん、良いところに。そう言われたのを覚えている。書類を取り出されて急ぎなんですがと言われれば断ることは出来なかった。間近の喫茶店に連れていかれ、支社と支社の間でうまく業務の連携が取れていないことを聞いた。
そこまでは覚えている。
差し出された紙面の無数の細かい数字とグラフが、眩い中に這う無数の虫みたいに見えた。
そして。
扉が開く音がした。そちらを見やれば看護師が入って来たところで、彼女は赤司に気づくと、お目覚めでしたかと微笑した。
「俺は、何でここに?」
「大したことは無いですよ。疲労が溜まってらしたんでしょう。赤司さんはお倒れになって、お連れの方が救急車を呼ばれたんですよ」
「疲労?」
「ええ、軽い貧血と、栄養不足と睡眠不足。あとは心理的なストレスですね」
看護師は白い肌の女性で、うなじのほつれ毛があだめいている。ぼんやりと眺めていれば彼女は点滴を新しいものに変え始めた。
「お加減はいかがですか?」
「ええ、特に悪くは無いです」
「そうですか――…お父様とご友人がいらっしゃっていますがお会いになれそうですか?」
「え、――父が?」
友人、緑間だろうか、そう思いながら、父が居るということに驚きを隠せなかった。
あの父が。今までの人生で、一度たりとあの人が赤司の誕生日に居合わせたことはなかった。まだ幾つかの業務を手伝っているに過ぎない赤司でさえこの忙しさなのだから父親の多忙具合などおよそ筆舌に屈し難いのだろう。なら、何故こんなところにいるのか。どういう風の吹き回しだ。
「ええ、呼んでもらっても構いませんか」
赤司が言うと看護師は笑って頷き、取替えた点滴の具合を確認すると出て行った。
赤司は起き上がると己が姿を見下ろして、シャツとスラックスという出で立ちで寝かされているのに気がついた。既にシワになってはいるが、ボタンを上まで止め直し髪を撫で付ける。腕時計を見やれば時刻は既に夜の十時を回っている。身支度が終わるか終わらないかのうちにがちゃりと扉が開いて、入ってきたのは父親だった。
電気をつけて照らされた父の顔はやはり威厳に満ちていた。深い皺が刻まれている。こうやって顔をじっくり合わせるのも久しぶりだ。記憶の中の父よりも老いて疲れている気がする。それは彼と会うたびに受ける印象だった。なにせ赤司の中の父親の印象は、母親の生前に、一度だけ家族で祝ったクリスマスのときを基準にしている。そのとき自分は珍しく父親の笑顔を見たのだった。きっとあの時が父にとって一番幸せな時期だったのだろうと思う。若さのせいだけではなく、ひどく満ち足りた表情をしていた。それに引き比べて現在の父は。ぐったりと疲れた陰鬱な顔をしている。彼は無言でベッド脇まで歩み寄ってきた。
「父さん、見苦しいところを見せてしまって申し訳ありません。お仕事はよろしいのですか?」
「ああ」
返ってきた言葉はそっけなかった。赤司は肩をすくめる。なにか話すのかと思いきや、父はゆっくりと窓の方を向き、赤司には背を向けてしまった。
「疲れが溜まっていたならそう言いなさい。取引先の人間…河村が心配していた」
「ああ…」
河村は倒れた時に話していた男の名であった。
申し訳ありません、あとで正式に謝罪の挨拶を致します。言いかけた赤司の言葉を遮って、人に弱みを見せるな、鋭い叱責が飛んできた。
「お前には口を酸っぱくして言ってきたはずだ。全てを完璧に為し万人を統べてこそ赤司家の人間なのだと」
「承知しております」
「結果の伴わない言動に何の意味がある」
「返す言葉もありません」
こんなことを繰り返している。頭の隅で別人格の旧い傀儡が笑っている。僕の言ったとおりだろう、兄さん。うるさい、お前こそが俺の弱さだ。お前こそが赤司家の重圧に負け産み落とされた憐れな仔羊だ。父の厳しい言葉に頭を垂れ応じながら、そんなことを思っている。
「周りのものに与える影響を考えろ、そんな不摂生で倒れるような人間が赤司の名に相応しいと思うのか」
「申し訳ありません」
謝りながら、赤司は、赤司の名に取り憑かれているのは一体誰かと考える。それはもしかしなくともこの目の前の五十も半ばを過ぎた男なのだった。分かっている。幼少期からそのきらいはあったけれど、母さんを亡くしてから偏執の度合いは増した。
「知らせを聞いて肝を冷やした。詩織が死んだ日を思い出した」
「――…は」
父が漏らした弱音はにわかには信じられぬもので赤司は目を剥いた。詩織。母さんが死んでから滅多に父はその名を口にすることは無かった。葬儀の時にほんの少し思い出話をすることがあるかどうかといったところだ。征十郎くんは本当に詩織さんに似ているね。それは母を知る人間からよくかけられる言葉だった。
「…母さん、ですか?」
思わずそう問い直してしまう。いくら自分と母の顔が似ているとしたって、状況は全く違う。五体満足でスポーツマンの赤司に対し、 母は病気がちで入退院を繰り返していた。見た目にも全く華奢で儚さを持つ人で、元々長くは生きられないだろうと言われていた。俺を恙無く生んだことさえ奇跡のようなものだったと聞く。一生独身で過ごすと決めていた十五も下の母を見初めたのが父で、彼女にまつわる全ての事情を了承したうえで彼女を娶ったのだ。
「お前は自分がほかの物に与える影響を少し考えて行動しなさい」
名残のように父親が言う。
つまりそれはきっとそういう事なのだろうと思う、今更嬉しがることは出来なかった。唯、この人にもそういう感情があったのだと、その事実がなんとなく潮のように心に満ちた。けれどそれは次ぐ言葉にすぐに押し流されていった。


「みどりま」
くす、恋人は笑った。寝台に横たわって伸ばした彼の腕は細く、疲労が原因ですねといった看護師の言葉がようやっと腑に落ちていった。あかし、名前を呼ぶことも出来ずずいと足を踏み出す。傍らに立ち腕を手に取って顔をのぞき込むと、少しだけやつれた恋人の顔がすぐそこにあった。
「お前の方が死にそうな顔をしている」
細い指がそろりと緑間の頬を撫でていく。馬鹿かお前は、そんな言葉が思ったより激しい語調で口からあふれでていった。
「死ぬとか、縁起でもないことを言うんじゃないのだよ!」
赤司は一瞬豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くしてから、すまないねと言った。
「すまないとか、そういうこっちゃないのだよ!」
「ああ、確かに謝っても取り返しがつかないな。お前のことだから今日はいろいろと計画を練ってくれていたんだろう?」
「っそれはそうだが、そんなことはどうとでもなるのだよ、赤司、俺はそんなことでお前に怒っているのではないのだよ!」
体調管理をしっかりしてくれという旨ならね、さっき父からもさんざんお叱りを受けたから勘弁してくれないか。語調は柔らかく、この男に対してたまに感じる包容力だの母性だのがずいぶん全面に出たものになっていた。冷たい指がそろりと頬をたどって緑間の眼鏡を押し上げてくる。
「ねえ、ひと月ぶりにあった恋人にお説教? 久しぶりのキスはなし?」
赤司の顔は童顔のくせに艶めいている。そんなふうに請われれば緑間は一溜りもなく、誘われるままその柔らかな唇にキスを落とす。離して至近距離で見つめ合えば、その眸の深い赤にどきりとした。
「…お前、一体父に何を言ったんだ?」
 彼はそう言ってまた愉快そうにくすくすと笑った。笑って、くしゃりと緑間の髪をかきあげてごめんね、緑間、と囁く。緑間は赤司の顎を掴んで顔色が悪いとだけ言った。教えてくれないの。赤司がそう答えをせっつくものだから、お前こそなにか言われたのかと尋ねた。
「大したことはないさ、ただ人を信じすぎるなと言われた。おぞましいとも言っていたな。お前、父に俺と付き合っていることを言ったのか?」
「いや…それは言っていないのだよ、お前の了承もとらずにそんなことを言うものでもないだろう」
「そうか」
 赤司は静かに眦を下げる。おぞましい、彼がこともなげに発音したその言葉が今緑間の胸を刺してやまなかった。それはいったい何を指しているのか。赤司と自分の関係か。しかし、赤司の父に、赤司が疑ったような彼と自分の関係をほのめかすような言葉は言わなかったはずだ。
喫茶店で待ったまま幾度か赤司邸に電話をかけた。そちらの征十郎さんと待ち合わせをしているのだが現れず、携帯も繋がらないのだが。最初は、いえ、お答えしかねますという返事だったが、午後六時を回ってまた電話をかけると、お倒れになったという連絡が入りましたと、偶然電話をとったらしい老人がそう教えてくれた。搬送先の病院の名前を聞き出して、緑間は花束を持ったまま真っ先にタクシーを捕まえて乗り込んだ。その車中で緑間は気が気ではなかった。倒れた、倒れた? 赤司が? あの、赤司征十郎が? 存外もろい背中をしていた、そんなことはとっくの昔に知っていた、それでも屹然とゲームを統べ、コート中に響き渡るほどに凛と声を張る赤司は、何かに守られるためではなく、何かを守るための存在なのだと思っていた。それが、倒れた、だと。
赤司、お前を失う? それは極端な予感だったかもしれない、それでもその万に一つはありうるだろう可能性が恐ろしかった。レストランディナー、ピアノコンチェルト、海辺のホテル、そんなもの全てが消し飛んでいく。なんて自分は目出度い人間だったか。歯噛みしても変わらぬ過去を、こんなにも口惜しく思ったのはいつ以来だろう。
そして、そうやって駆けつけた先にはあの赤司の父親がいた。赤司、征臣。赤司財閥の生ける伝説として、日本中にその名を轟かす男だ。直接会うのは初めてだったが、ひどい威厳に満ちていた。待合室ですらもひどく重苦しい空気で、この父親からあの息子が生み出されるのかとそんな場合でもないのに膝を打ちたくなるほどだった。彼はばたばたと入ってきた花束を抱えた大男に流石に一瞬目を見開いてから、何も言わず視線を逸らし携帯を開いた。三つ、四つ、五つ、いったいそんなにどこに電話をかける必要があるのかというくらい赤司征臣は忙しなく、通話が終わったはしからまた着信を受けていた。緑間は壁に寄りかかり、現れた看護婦に赤司の容態を尋ねた。大したことはありません、疲労からくる貧血と睡眠不足ですよ。彼女はそんなことを言い、それに緑間は卒倒しかねないほどに安堵した。そうして自分と同じことを尋ねて、情けないと呟いた赤司の父親に驚くほどの怒りを覚えたのだ。
「あの人を怒らせると面倒なことになるんだからいいのに」
赤司は笑っている。こんなによく笑うやつだったろうかと思う。
「いいと言われてもだな」
緑間は憮然とした顔でそう言い募るしかなかった。お前をあまりに軽んじる男が、たとえどんなに年かさで地位も高くい完璧な男であろうと、本人の父親であろうと関係がない。だって俺は赤司が好きなのだから。
「それでなんて言ったんだい?」
「…もう少し自分の息子を大事にしろと言った」
 緑間が渋々白状すれば、赤司はぽかんと虚をつかれたような顔をした。そうしてから、またおかしくてたまらないという顔で吹き出す。あんまり笑うな、体に響く。言って肩をさすれば、そんなにやわじゃないよと赤司は言い、ひとしきり笑い終わるまではかなりの時間を要していた。
「はあおかしい、そう緑間、お前そんなことを言ったの」
「…そうだが。何がそんなにおかしいのか俺にはわからんのだよ」
「いや、あの人にしてみれば晴天の霹靂だったろうね」
くすくすと笑う、密やかな笑い方だ。目尻に滲んだ泪を拭う笑顔の赤司はひどく無邪気に緑間の目に映る。
「…差し出がましいことを言ったとは思うが」
「いや、たまにはいいさ。昔はあそこまで意固地な人ではなかったんだが、母が死んでからね…なんというか、ああいうふうになってしまって」
「お前の母親が死んだのは十年以上前だろう」
「そうだね、でもまあ…仕方がないことなんだろう」
俺は母の代わりにはなれないから。赤司の名に一番とらわれているのはほかでもないあの人で、俺は時々それを哀れにすら思うよ。しようのない人。そう言いたげな赤司の顔は何だかひどく落ち着いていて、緑間はふと不快な気持ちになったのだった。
「お前はお前の父親の妻ではない」
返しながら、上半身だけをベッドに乗り上げ、赤司の両腕を掴み体重をかける。そうすればこの華奢な男は抵抗もできず、驚いたように視線を浮かせて言い募る。
「わかってるさそんなこと。今のは言葉の綾だ、みど――」
遮るように再びくちづけた。ちゅ、ちゅ、最初は辿るような口づけだったが、徐々にそれが深くなる。赤司は緑間の後頭部に手を回し自分からそれを誘(いざな)っていた。赤司の腕から伸びる点滴の機械がキイと音を立てるが、倒しさえしなければ大した問題はないだろう。久方ぶりに触れた赤司の唇は柔らかく、夢中でそれを貪っていればいつのまにか五分ほどが経っていた。潤んだ目で見つめ合いながら唇を離せば、唾液がつうと伸びてお互いの唇をつなげた。ひどく近い距離のまま乱れた呼吸を整え直す。そのまま可愛らしく息を喘がせていればいいのに、恋人は濡れた唇をにやりと笑ませて妬いたの、などというから、馬鹿を言えと言いながら緑間は彼から身を起こそうとした。赤司は途端にこちらに取りすがってきて、緑間の耳に唇を寄せるとかすれた声で囁いた。
「ごめん、今日は本当にすまなかった。でも、好きだよ緑間、大好きだ」
共にいろとばかりにわななく指に誰にとは言わず優越感を覚える。
「…わかっている。無事でなによりなのだよ、赤司」
にじむような赤毛に指を差し入れて撫でれば、彼の体の子供のような熱が伝わってきた。緑間は目を閉じてそれを味わう。赤司征十郎のことが好きだった。自分よりずっと小さな体で重いものを抱えてそれでも笑う、強くて弱いこの男のことが何よりも愛おしい。自分などに守られるほど馬鹿でも弱々しくもない男なことは分かっていた。ただ自分がいなければいつか彼は何かに押しつぶされ潰えてしまうようで、それが闇雲に恐ろしい。優れた頭脳、優しい手肢。そんなふうにすべてをもって、独りで生きられる人間などいるものだろうか。


父は母の死に目に会えなかった。
その頃、母の容態は小康状態を保っていた。長い入院からやっと赤司家に戻ってきた彼女は、赤司が小学校へ行っている間に病院の定期検診へと向かい、その帰り道で容態が急変した。その日は母が外の空気にあたりたいと言い張ったので、電車で行き帰りをしていたのだという。その所為で救急車への連絡が大分遅れた。母が病院を出たのは午後二時半。父にまで母が病院に急遽搬送されたという連絡が伝わったのは午後四時。それから父が抜け出せない仕事をこなして病院に駆けつけたのは午後九時を回ってからだった。
赤司はその日はずっといつもどおりの生活を送っていた。小学校から運転手に連れられて帰宅し、家庭教師の先生と中学校の勉強をし、バイオリンを練習し、雪丸に乗り、ネイティブの英会話講師といくつかのダイアログを覚えた。父の椅子を正面に見ながら夕食を食べお風呂に入り、使用人におやすみなさいませと挨拶し、そして子供部屋へ戻った。丁度寝入りばなだった。一人の女性の使用人が赤司を、おぼっちゃま、お母様が、と言いながら慌てた様子で揺り起こした。そうしてとりあえず寝巻きを着替えて車に乗り病院にたどり着くと、そこには父と、ベッドに乗った母がいた。自分が来てもなんの反応も示さない父の傍らに立って、幼い赤司は母親を覗き込んだ。そう、よく覚えている。母親は、寝巻きではなく普段着の白いワンピースを纏っている以外は、慣れ親しんだあの優しい寝顔を浮かべているように見えた。
「おかあさま」
戸惑うように名を呼んで、何か教えてくれないかと見上げたさきの父は、見たこともない表情で俯いていた。怒っているような泣いているような、驚いているような悲しんでいるような、幼い赤司には理解のできない表情だった。落ち着いてお聞きくださいね、おぼっちゃま、おかあさまが、先ほどお亡くなりになりました。車の中で、震える声で一度だけそう告げられていた。それでもそのあまりにも唐突な宣告は全く現実と乖離していたし、赤司の頭にはその言葉だけがぼんやり残っていた。
おかあさまがお亡くなりになりました。
おなくなりになる、それはしぬということで、しぬということは、えいえんにねむったままということだったか。その時赤司が思い出したのは、母に読んでもらった一冊の絵本だった。今思えばキリスト教系の団体か何かの絵本だったのだろう。
ひとはいつかえいえんのねむりにつきます。そしてそのひとのほんとうのばしょだけが、とおくとおくのかみさまのおくににのぼっていきます。そこではたくさんのひとがずっとしあわせにくらしています。かみさまの国にはいつもいいにおいがして、たったひとつのかなしいこともありません。
そんなことが書かれていたように思う。
「おとうさま、おかあさまはとおくへいってしまったの?」
そう尋ねてしまってから、幼心にああこれは軽率に過ぎる問いだと思った。だってとおくへいくもなにも母はここにいるではないか。今この手も触れられる場所にいる人を遠くへ行ってしまったと形容するのは間違っている。そんなことを赤司は思って、父から鋭い叱咤が飛んでくるのを覚悟した。けれど実際には父は何も答えなかった。おとうさま。おとう、さま。どうしてしまったのだろう。こんなにも打ちひしがれて空っぽな姿をしている父親を見るのは初めてで、赤司は混乱していた。混乱のさなか、もうひとつ絵本を読んだときに覚えた疑問が口をついていた。ひとは、かみさまのおくににいって幸せになれるのだという。だとしたら、今生きているひとはどんなに周りからそんなふうに見えたとしても、本当にしあわせではないのだろうか。
「とうさま。おかあさまはしあわせではなかったの?」
それはきっとひどく残酷な問いだったと今なら思う。一瞬おいて頬に鋭い痛みが走った。父に頬を張られたのだと、気づいたときにはもう床に尻餅をついていて、そしてあまりに予想外の反応に考えるより先に涙が溢れ出していた。


てつてつと、点滴が落ちる優しい音が聞こえてきていた。腕時計を見やると時刻は午前一時を回っていて、ああ誕生日は終わってしまったなとそんなことを思う。傍らをみれば、緑間が床に膝をついたままベッドの縁に体をもたせかけていた。おどろいて身じろぎしてから、ようやく赤司は彼が自分の手をつないだまま眠ってしまっていることに気がついた。
「みどりま、」
薄く声をかける、そんなところにいては体が冷えるし、痛くなってしまうだろうと思ったからだ。しかし恋人の眠りは深いようでぴくりともしない。存外眠りの浅いやつだと知っていたから、ここまで寝入っているところを起こすのも忍びがなかった。とっくのとうに面会時間は過ぎているはずだけれど、身内ということで見逃してくれているのだろうか。赤司はふ、とため息をつく。
随分懐かしい夢を見ていた。そのあとの葬儀の準備や豪勢な葬式はかなりくっきりと記憶に焼き付いているのだが、母が亡くなった当日のことはあまり思い出すことがない。それはもしかしたら、父の怒りを思い出したくないからなのかも知れなかった。どんなに不完全でどんなに未熟といえるような人であろうが彼と俺は血を分けた肉親で、紛れもなくどこかで繋がっている。彼についてどう思っているか。それは一言では言い尽くせない問題だ。愛しているのかはわからないけれど、特に 憎みも軽蔑もしていない。子供に対しては狭量すぎるあの行為だって、今となればやりきれない感情のあの人なりの不器用な発露だったのだろうと分かっている。
それにしても!
眠る前にした緑間との対話を思い出して赤司は唇を弓なりに歪ませた。あの人は、突然現れたよくわからない男に子を大事にしろなどと言われていったいどういう気持ちだったのだろう。俺が倒れたという知らせを聞いて母さんを思い出したというのだから、もしかしたら過去の自分を責められていると思ったかもしれない。どうしよう、今頃自己嫌悪の念に苛まれて深酒なんかしていたら。想像するとひどく愉快で、ざまあみろとすら思う。おかしいな、あの人に反抗的なのは僕の方で、むしろ俺は同情的な立場をとっていたはずなのだが。肩を震わせていると、握っていた手から振動が伝わったのか緑間が身動ぎする気配がした。起こしてしまったかと思って見ていると、彼はとろりとした目のまま顔をもたげてこちらを見る。


「お前に渡そうと思っていたものがあったのだよ」
「ああ、あの花束か?」
赤司は机の上に投げ出されている薔薇の花束を指し示した。色は真紅、自分の眸の色に合わせただけなのかもしれないがなんとも情熱的だ。父はあるいはこれを見て自分と彼の関係を察したのかもしれない。人をあまり信じすぎるな、おぞましい。その言葉が投げられたときショックを受けなかったといえば嘘になるが、まあこの人からはこういう感想が出るだろうと考えていた。赤司家の一人息子がゲイだなどと父からしてみれば悪い冗談にもほどがある現実だろう。厳密には赤司は自分がゲイだとは思っていないのだが外から見れば同じことだろう。赤司は別に女性を性的対象に思えないわけでもなかった。相手が緑間真太郎という存在であるがために恋人になってしまったというだけで、彼が男だからそうなったわけではない。
緑間は花束を見やると一瞬驚いた顔をしたが(存在を忘れていたのだろう)「いや、それではない」とまた真剣な顔に戻る。じゃあ何だろう、思いながら動向を見守っていれば緑間はポケットから小さな箱を取り出した。あまりに意外で目を見開いた。見るからに上質そうなそれはちょっとやそっとの金額で買えるものではない。
「…馬鹿、こんな金どこから」
「研修で行っていた時の給料と、あとはバイト代なのだよ」
「…バイト代? 勉強勉強でろくに寝る暇もなかったやつがよく言うよ」
「赤司」
頼むから今回だけは、そう言わずに受け取ってくれ。無駄に顔のいい恋人はそうやって口を引き締めて顎を引けば、恐ろしい程様になるのだ。
「……」
「開けてくれないか」
有無を言わさぬ声に従ってその小箱を開けた。緑の小箱はよく手に馴染む。果たしてその中には、赤く光る小さな石が付いた細い指輪が収まっていた。
「…緑間。これは」
「見た通りなのだよ。けじめをつけるには良い時期だ、なあ、そう思わないか、赤司」
ベッドサイトに膝をついて緑間は、まるで従順な召使のように赤司を見上げていた。
赤司は思う、こいつだって可哀想なやつなのだ。きっと今日のデートには万全の態勢で臨んでいたのだろう、あんなに自信満々で電話をかけてくるくらいなのだから、もしかしたらディナーつきホテルだとかライトアップつきのピアノスタジオだとか、そんなよくわからない童貞くさいものを予約していたのかもしれない。その完璧なプロポーズ大作戦が、俺が倒れたお陰でみんなパーだ。それでも愛想の一つもつかさないで、こんなレッドクオーツの指輪なんか持って来て必死な顔で見上げるのか。結婚もできない男なんかに永遠の愛なんか誓って、何ヶ月かの給料なんか叩いて。馬鹿だなと思う、馬鹿だと思ってそれからぼんやりと、幸せだと思った。
「…ありがとう」
みどりま。
誕生日おめでとうなのだよ。一時間すぎてしまったけれど。
今更照れたように眼鏡を押し上げてそう言う緑間に、赤司は、きっと今日の射手座の運勢は一位だな、と返して微笑した。







(15.12.22 pixivに投稿
16.01.01 サイトに転載)
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