季節は次々死んでいく




※グロ注意 





滴り落ちる。

舌の上で生肉は頗る旨い。青年は正装をして、白くだだぴろい食堂でひとり席についていた。生肉は紫とも赤とも言えない色をしている。肉の色は肉の色としか言いようがない。焼きも茹でもしないそれを、彼は黙々とナイフとフォークで切り分け食べ続けていた。きっと脂がひどいだろう。しかし、当の人物はそんなことは歯牙にもかけていないようだ。青年は並外れて整った顔をし、なかでも切れ長の大きな目が印象的である。童顔ににあわないひどく凛とした雰囲気を放っていて、見るものに、それがふとした瞬間鋭利な刃物のように自他を突き刺すことを予感させる。鮮血が滴り落ちる。美しく、白く、色彩のない整った食事風景だ。
青年は上品に肉を口に運んでいった。味わい、噛み、飲みこみ、次のものに手を付ける。時折は口からこぼれたものを吸いこんだり、大きさに応じて口を大きく開いたり、ぺろりと唇を舐めたりする。スーツはどうもアルマーニ、カフスピンも、胸ポケットにさめられたハンカチも、ネクタイも、嫌味なくらいに高級品だ。革靴も念入りに磨き抜かれている。
彼の背筋は伸び体にもしっかりと筋肉がついている。テーブルマナーも悪くはない。青年はフォークやナイフの音をたてないし、口を開けて肉を噛むことも、皿を舐めたりすることもない。ただ淡淡とにくを咀嚼して飲み込み続けている。
青年が歯を立てた肉が、途端に弾け血が一面にぶちまけられた。白と黒と肉の色彩の中で赤はひどく鮮やかだ。青年にはよく血が似合う、彼の髪の毛自体が赤毛だからだろうか。それともその肌の白さのためだろうか。血は彼の顎や、シワ一つないワイシャツと背広の胸まではじけ飛ぶ。それはただの体液なのに、芸術的なまでに鮮やかな色をしてい た。まるで意にも介さず彼は食事を続行した。傍目にはそうは見えねど、尽きることのない餓えに浮かされるているかのようだ。

ぺろり、唇を舐める。次に口へと運んだ肉が硬かったのか、彼は少し大きく顎を動かして噛み締めた。土台彼はいつからこうしていて、いつまでこうしているのだろうか。その疑問に答えるものはいない。ここには時計もなく人気もない。彼は時折手拭きで手をぬぐい、ふたたび食べ始める。
ふと、ここで青年ははじめて、自分が今食べているのは何の肉だろう、と疑問を抱いた。ずらりと際限なく広いテーブルの上に乗っている生肉は、どれもカットされて何の動物のどこの部位であるかはわからなくなっていた。…牛か、豚か鳥、それともまた別のなにかだろうか。あるいはそのどれもが混ざっているのか。生肉の味そのもので判別するのはなかなか青年にとっては至難の業だった。
まあいいかと結論づけて、彼は再び食べ続ける。食べ続けるのが彼の存在意義であり宿命である。生きるために食うのか食うために生きるのか。その問に答えられたものは未だかつて誰もいないはずであった。
彼はこの聖餐が、だんだんとグロテスクなものになってゆくのにきがついていた。腸らしき部位が引きちぎられた、その一部が、血だまりをつくり皿の上に乗っている。心臓のような小さななかたまりが、まだ仄かな胎動をたたえてひとつころりと転がっている。溶けかかった赤いそれは、頬張ると柔らかく舌の上で解け、ぷしゃりと潮のようなものを吐き出した。生臭いほどの血の味が口の中に広がったけれど、青年はそれも嚥下した。続々とそういったものののった皿が青年のテーブルには運ばれてきた。出されるものが何であるにせよ、彼はフォークを突き刺し、ナイフで切り分け、自分の口へと運んだ。その作業すらも面倒であったり、あまりぬめるようだと、彼はそれを直接手で掴んで頬張ったりした。血が、脂が、得体の知れない何かの飛沫が青年の顔に髪に服に飛んでいく。

時を追うにつれ、青年の正装は正装ではなく、青年の食事は食事ではなくなっていった。そこにあるのはその残骸であろうか。皿にのせられた命が、もう命ではないように。そして運ばれてきた何十皿めかの皿の上には、まだ淡く湯気が立つ舌が乗せられていた。もはやその時には、目の下、腰から上のほとんどを真っ赤に染めあげられていた青年は、小さな舌を見てうっとりと目を細めた。きっと誰かに愛しいと思われるために作られた、そんな類の動物の一部のようだった。猫か、犬か。きっと猫だ、しかも異様な小ささから類推するに、子猫に違いない。血溜りの赤は青年の赤毛の他にたったひとつだけの、かつてあった命の名残を証左する。そういえば青年はこの部屋で、随分寂しくもあったのだった。
(おれを)
生かしてくれるというのか。血のしたたるそれを青年は手で掴んで貪った。舌はほのかに温かく柔らかい。もぐ、もぐ、もぐ、ごくん。糸を引いて口から零れそうになった筋を青年は指でつかみ啜りとる。これは、食事で人間がすることだと青年は思い、そしてそれから、しかしどうも人がしないことをしているようだと考える。ふふ。おかしい、おかしいね。返事はない。そうだ、ここには彼一人しかいないんだからそれが道理だ。そのために、こんなにも凍えそうに寂しくて、こんなにも腹が減っているのだろう。笑窪を浮かべながら、彼は指についた血を音を立てて吸い舐めとった。早く次へ。食事は生きるためにする行為でそうしなければ、新陳代謝を怠った生物はきっと退化して死んでしまう。
さて、何皿目のことであっただろうか。
青年は頬張ったモノのこきこきという感触を楽しんでいた。だいぶ筋張っている。五つの細長い部位の名を、なんというか。青年はもうだいぶ前から自分の食べ物の生前の姿を想像するのは無益だと察してあまり考えもしなかったのだけど、食感の中にふと不快なものを感じて吐き出した。ぺっ、血溜りの中にぽとんと落ちたそれは何かの貝殻のようだった。骨というには薄すぎ、しかしたしかに硬いもの。青年はそれを拾い上げまじまじと見た。

ああ。
青年はその名を思い出して溜息を飲み込む。ゆっくりと。ゆっくりと。それは近づいていて、俺はきっともう最後に供されるものがなんだか分かっているのだ。次の皿は、随分美しい黄色い珠が乗っていた。それは肉ではなく、そして彼が今まで見てきたどんな臓器ともちがう形をしていた。それには少なくとも美しさがあって、美的な感覚に訴える要素があった。
…食べられるのかしら。
一瞬そう思い、そして、食べられないものは出されるわけがあるまいと考え直す。試しにと、惜しいながら、一度フォークで突き刺してみた。その頃にはもうフォークもナイフも脂でだめになっていて、だいぶ力を入れなければ切り分けることも困難になっていた。それでも、その球はあっけなくとろりと崩れ、何か透明な液体を溢れさせた。
…これは面白い。珠はやけに綺麗に光るので、よく出来た飴細工のようにも思えた。こういうふうな飴細工を、昔きっと何かで見たことがある。映画の中だっただろうか。多分、実際に自分が目の前にしたものではないはずだ。更に珠の奥深くにフォークを刺すと、中に入っていたの黄いろい固形が温泉卵のように割れて、粘性の液体となって染み出してきた。
垂れては困るので、多少もったいなかったが、青年はスプーンでそれを注意深くすくいとると、一口に頬張って噛み締めた。今まで一度も食べたことのない味であった、どことなく爽やかで、甘く苦く、けれど海のように塩からかった。食感も独特だ。水菓子に似た柔らかな舌触り。歯を立てればプチンと割れて粘性の汁が溢れ出す。幾度か味わって噛み締めてから、青年はそれを嚥み下した。珍味、であった。
「…ふ、う」
喉の奥をつうと滑って胃のなかに落ちていくそれは柔らかく蕩け、まるでもともと自分の一部であったかのようだ。さて次は何だろうか。青年は腹をさする。影のような使用人が、ごろごろと大きなワゴンを押してやってきた。パーティ用の大皿に、クリスマスの七面鳥みたいな大きさの何かが、白いナプキンをかけられて載っている。だいぶ大物のようだった。青年の横できい、とワゴンは軋んで止まった。血だまりはクロスの上を飛び散って、彼の周辺は赤い海に染まっている。使用人は両手で慎重に皿を持ち上げて、恭しい動作で青年の前にと置いた。そうして、三歩ほど下がって赤司の椅子の後ろへとついた。
――ああ。
――今まで切られていたというのに。彼が最後の生き残りだというのだろうか。
青年はそのクロスがかかったものを見やる、開けたくないような、開けたいような、ひどく奇妙な気持ちがしていた。ネクタイを正そうとして苦笑する。どろどろとしたそれはもはやネクタイの役割をなしていない。
ゆっくりとクロスを取り払えば、そこには左の眼球をくり抜かれた自分と瓜二つの顔があった。無事なほうの目はかっと見開かれて、瞳孔が開いている。口元にはひきつったような笑みが浮かんでいる。一言でいえばひどく傲慢な顔つきをしていた。血のような色の髪の毛は今だ艶があり美しい。前髪は短く切られ、幼げな額と綺麗な眉がのぞいている。青年はその髪をひと房とって、検分するように眺める。滑らかで上質の髪の毛だった。生まれてからずっと大事にされ閉じ込められてきた動物のようだった。








(2020.2.15
 2022.10.3 サイト掲載)