汗と埃と、土のにおいがする。
それらはどれもが、自分には那由多の昔から縁が無かったものだ。ふっと鼻孔をひくつかせば薫るその、けもの染みたにおいに。知らず惹かれてしまうのは、人に使われる業(わざもの)の本能なのかもしれなかった。
視界には傷だらけの逞しい背中が見える。普段から鍛えていると言う言葉とふさわしい、自分とは酷くかけ離れたかたちの傀儡(からだ)だった。これが先ほどまでおいすがり、夢中で爪を立てた背中だとは何だかにわかに信じがたかった。まあ確かに、常に、繻子の布、羅紗の毛皮、まろやかな和紙、そんなものに取り囲まれてきたこの身には、こういう類の男と触れ合うなど思いがけないことに違いない。
「同田貫よ」
「なんだ、爺さん」
動作の一つ一つが荒っぽく情緒の欠片もない。その、僅か僅かな起居の合間合間に獣のような臭いをまき散らして、同田貫正国というかたなは在った。命など要らねえよ、どうせオレは刀なんだから闘って死ぬが本望だ。言いざま凶暴な笑みを浮かべる姿は、粗野であると同時に矜持があった。
三日月宗近は、そんな同田貫の在り方に多少ならず惹かれている。
「つちのにおいがするな」
仰向けに寝返りを打つと、宗近はそうひとりごちた。
「あァ?」
同田貫は唸るように返事をした。おそらくこの男は何もかもをそういう調子で片づけていくんだろう。それは何だかわけもなく愉快だった。新鮮、というのだろうか。
「お前の匂いが染みている」
この部屋に。この褥に。この身体に。あるいは、この心に。
同田貫はくは、と苦笑したようだった。
「オレが臭いってか、爺さん」
「そんなことは言っておらんぞ」
「そういうことだろうが。そりゃアあんたの、白檀臭えのには負けるがよ」
「それはおれにはわからんなあ」
もう、そんなものは鼻が利かなくなっていてな。長閑に言うと、同田貫は、違いないと応じた。
「オレだって、あんたのいう土臭いとやらはわからんぜ」
お互い相手のことは鼻が利くんだな。そこで彼はやっと、三日月の方にその表を向けた。肩にひっかけている灰色が基調の羽織は、彼が夜具としていつも使っているものだ。三日月は以前は見向きもせなかったその地味な色を、今は好くようになっている。その体をしみじみと見やった。どこまでも雅とは縁のない巌(いわお)のような体である。
「染みるというのは言葉のあやよ」
「――やっぱりわからねえなあ、あんたの言うことは」
その、良く見ればかわいらしく整った顔の。左から斜めに入った傷痕を見る度に。いつも三日月は不思議な心持ちになる。怪我や傷ととはとんと縁のない暮らしをしてきたものだから、彼と初めて会ったときに思わず、痛くはないのか、と問うてしまった。この男はひとつきょとんとした顔をしてから、はあ?と聞き返してきたものだ。よく覚えている。
「飾られたまんまなんていう、甘ったれた生活をしてるからそんな考えになるんだよ。これはもうずっと昔の傷で、ふさがってるし、痛くなんかねぇ。それに言っとくが、これはただの傷痕じゃアない。俺にとっちゃこりゃあ、勲章だ。誉なのさ」
「ほう」
傷痕を、誉とは。自慢げなその言葉を聞いたとき、三日月は随分感心した。おれが暮らしてきた環境では、疵どころか、曇り一つ、埃一つついただけで上を下への大騒ぎだった。無論恵まれた環境ではあっただろう。永きに渡りただただちやほやされて来たのだし、別に恨む気持ちもない。ただ少し退屈だったかなと思うだけだ。
「爺さん、何を考えていやがる、にやけやがって」
「おや、そんな顔をしていたか」
参ったなとからから笑ってみせれば、若いこの男は調子が狂った顔をした。
うい奴と思う。存外純なやつとも思う。息をするたびに盛り上がる胸の筋と。触れれば鋼のように堅い腹。がっしりとした健の浮き出た脹脛。見慣れなく、どこか宗近を、そわそわとさせる雰囲気がある。無論顔には出さないし、気取られないようふるまってはいるが。
「おぬしは何を飲んでいるんだ?」
「ああ、これか」
同田貫は暗闇の中から、何か筒のようなものを宗近に見せた。透明なようで、光をはじいている。一見すると水の入った陶器のようなものだったが、それにしては透き通りすぎていた。好奇心をそそられて宗近は、吸い寄せられるように蒲団から出た。同田貫の傍らに身を寄せ、その不思議な物体を見る。
「オレがよく鍛錬で出かけた先で真水を探すのに困ると言ったらな、審神者がこれを持たせてくれたんだ」
「これは…不思議だなあ」
それは、まるで水を封じ込めた泡のような外見をしていた。堅いと思いきや、同田貫が触っている場所は容易く歪んでいる。
「割れ…ないのか?」
こんなに透き通って、まるで泡沫のようであるのに。そう問えば、ああ、俺も最初は不思議だった、と同田貫も言う。その中で揺れる水は濡れるかと思うほど如実に見えるのに、おそるおそる触れてみても、独特な形をした筒のつるりとした触感しか指先には伝わらない。
「ぺっとぼとる、というそうだ」
「ぺっとぼとる…」
さにわの時代には本当に不思議なものがあるものだなあ。感心して溜息を洩らせば、同田貫もそうだな、とうなずいた。彼が少し手を動かすと、中の水もゆらゆらと揺れた。いつ中を突き破り溢れてくるかと見守っても、とんとその気配はない。真水は飼い馴らされた獣のように、従順に、見えない仕切りのなかをのたくるだけだ。
「爺さん、そんなに見られちゃ飲めねえよ」
「ああ」
すまない。云って視線を外せば、同田貫はその白い蓋を外して、たくましい喉仏を上下させてそれをあおった。ごくごくと力強く喉が鳴る。宗近はなんとなく、めまいがするような気持ちでその様子を眺める。彼の近くに居ればいるほど、土と汗と、砂ほこりのようなにおいが鼻をつく。短く切った髪の生え際から、その首の後ろから、襟足から、あらゆる挙動の端々から。風呂はもう済んでいるのだから、もう体臭というほかないのだろう。その匂いに当てられる。まるで酒に酔ったようだ。
「どうした爺さん、さっきからぼうっとしやがって」
腰でも痛むか? 顔をゆがませて笑う、そのしぐさすら、遠く思えるけれども愛おしかった。同田貫、呼び、返事を待たずに、大きな傷跡が横切る顔を両手で包んだ。
「な、ん」
驚いた時、同田貫は目が大きく見開かれて、存外幼い印象になる。その表情が宗近は、わけもなく好きだ。ふ、と鼻先で笑って、三日月は同田貫の唇に自分のそれを重ねて舌を差し入れた。まだ飲み込んでいなかった水が、なまぬるくなって口の中に残っている。
「、―っふ…」
更に体重をかけた。体勢を崩した同田貫が、後ろに腕をつく。その膝を割るようにして躰を入れ接吻を深め、宗近は同田貫が口から溢れさせた水をそのまま飲み込んだ。同田貫が信じられないものを見るように見つめてくる。その視線を浴びながら、宗近は唇を離した。
「――味は、変わらないのだな」
「当たり前だ!」
飄々とほほ笑んだ宗近を、同田貫は真っ赤になって怒鳴りつけた。
「まあ、そう怒るな。減るもんでもなかろう」
「あんたは――上品かと思えばまたそういうことを…」
頭を抱える同田貫の、その心中に過るのは、宗近が顔を近づけた、その瞬間目に焼きついた双眸である。落ち着いた群青。藍。深縹(こきはなだ)。それらがまざりあうその下に沈む三日月が一つ、あんまり冴えていて驚いた。若しかしたら本当の三日月よりも美しいのかもしれない。同田貫には月を眺める趣味なんかないから分からない。ただあるのかないのかわからんような三日月よりも、それは酷くあざやかで、蠱惑的な光を放つように思う。刀は実戦に使われ、傷だらけになってなんぼだという考えを改める気もない。だが、この、三日月宗近は。
同田貫なんか縁がない、遠い時代の御貴族様が、ちやほやとあがめ、飾る為に造られたと聞く。そんなの糞喰らえだと思う。美しさなんていう怖気が走るようなものに当てられたなどと思いたくない。ただこの爺は調子を狂わせる。
自分とは全く対極な場所にいるような面をして、そのくせその愛嬌に任せて悪びれもせず懐に入り込んでくる。老獪で、つかみどころがなく、そのくせ遅く打たれた同田貫よりも、子供じみたところがある。永の間仕舞い込まれてきたがゆえなのだろうか。
「…しかし、終わったあとの割には元気だなあ爺さん」
そう低い声を出せば、宗近は珍しくぎくりとした顔をした。そろっといざろうとする宗近のその膝を、同田貫は腕を回して押さえ込み、そのまま蒲団に押し倒した。とっくに脱ぎ散らかされた狩衣は彼の身体の下で皺だらけになっている。当人が何も気にしていないようだから、自分が気にすることもないのだろう。その当の宗近は、こわがるような、期待するような、おもねる様な、そんな目でこちらを見上げてきた。
「なんだ、その目」
 彼は、時々こんな目をする。夜空のような目ん玉を、おかしなふうに光らせて、同田貫を射ぬくように凝視(みつめ)てくる。同田貫はそんな時の彼の姿はすきだ。追い詰められた獣のような、これからの出方を算段するような、どこか同田貫に屠られることを期待する、業が深い怯えのような、その目つき。こういう時だけ、この美しい刀は、獣としての本能をのぞかせる気がする。狩り、狩られ、支配し、支配され、貶め、辱められる。その交わし合いを想起させるような目をして見せる。
 同田貫は己の唇を舐めた。同田貫は戦いが好きだ。いのちのせめぎあいは、たまらなくスリリングで、刺激的だ。殺し合いと睦みあいはどこかで似ているのかもしれないと、同田貫は思う。宗近が口を開いた。
「来い、同田貫。おまえが欲しくなった」
 その一聴すると典雅な声が、しかし少しだけ、醜くかすれていたのが同田貫の気にいった。だが、従者やしもべのように、おいそれと服従するのは気にいらない。
「欲しいなら自分から仕掛けろ、爺さん」
 それが戦いというものだ。言えば、組み伏せた爺は人の悪そうな笑みを浮かべる。眸の中のうちのけが、まるで水に映ったようにゆがんでいた。
「あいわかった」



 行燈の中でゆらゆらと蝋燭の灯りが燃えていた。同田貫が夜着を着崩して、豪快な鼾を立てて眠っている。喉の渇きを覚えて宗近は目を醒ました。台所に井戸の汲み置きがあったかと起きあがろうとしてふと気が付く。あのぺっとぼとるとやらに水が入っているではないか。起きる気配のない同田貫をまたごうとして目測を誤ってふんずけて、それでも寝ている彼に胸をなでおろしてから、宗近はうきうきした気分で同田貫の枕元のそれを手に取った。同田貫が飲んだせいで少し減っているが、自分が喉を潤すくらいは残っている。飲む前に御手玉のように両手で弄ぶと、その不思議な物体は、やはり中で水をゆらめかせながら、しかし決して壊れることはなかった。
「不思議よのう」
 宗近は独りごちた。こんなにも見え透いているのに、一滴たりとも溢れさせないとは、そのぺっとぼとるとやらがなんだが少し憎らしい気になった。もどかしいともいう気分になった。この水だって、おそらくはこんな狭い中に囲われるなど不本意であろう。もっと広い池だとか、風呂だとか、そんなところに離してほしいに違いなかろう。
「このおれが飲んでやろう」
 蓋をきゅろきゅろと開けた。そのぴったりとぺっとぼとるにはまる形状にも感嘆してから、宗近は、いよいよ、ぺっとぼとるを口の中へと傾けた。瞬間踊りこんでくる水に、当然のことながらも驚き、そして、年甲斐もなく興奮めいたものを覚える。渇いた喉に水は気持ちよく、宗近は一息にそれを飲み下した。ぺっとぼとるの中はからっぽになってしまった。
「ふふ」
 これは、同田貫が飲んだものと同じ水なのだ。同じみず、などというものが存在すればの話だけれど。まあ同じぺっとぼとるに入っていたのだから、そういうことにしておけばいいだろう。
「主の時代には、本当に不思議なものがあるのだなあ」
 そういえば汗をたくさんかいたものだから、体がべとついて気持ちが悪かった。夜半だけれど、裏を返せば風呂を使う者などいないということなんだから、行水くらいは構わなかろう。脳髄がふわふわとした心地なのは、さんざんぱら嗅がされた同田貫の匂いに、未だあてられているのかもしれなかった。酔っているような心地だった。宗近は空のぺっとぼとるを枕元に戻すと、かろやかな足取りで、同田貫の部屋を後にした。彼の微かな鼾が、いつまでも耳の奥に残っている気がした。








(2015.04.22  Pixiv投稿 2022.10.05 本サイトに転載>