色のない。

逆立つ氷の柱が矢継ぎ早に押し寄せ、鋭利な切っ先から霜煙がのぼった。たちどころに現れた巨大氷山の冷気。フィールドを疾駆する本人の身のこなしは恐ろしく俊敏で靭やかな動物を想起させた。前髪の間から覗く色の不揃いの眸は冷えた憎悪と怒りを湛え、どこか鬱憤をぶつけるような戦法を取った。それが当時の彼の姿であった。制御できない火焔によって焼け落ちたコスチュームの内からは長年の鍛錬を思わせる逞しい肉体が剥き出した。まぐれのように拾った勝ちに瞠目する姿は、いびつな強さを見た者に感じさせた。


真夏、深過ぎる新緑の森に蝉の声が降り込めていた。ほとんど人も通らない山道じみた細道の停留所で、緑谷出久は轟焦凍とふたりバスを待ち立っていた。雄英の訓練場の一つである山中での自主トレの帰路だった。大気は熱と湿気を孕み、何もしなくても汗が噴き出しつづけ、あっという間に制服が濡れていく。
「…あついね」
沈黙の気まずさに耐えかねて、ぽつりと言った緑谷に、轟は「おう」と応じた。傍らの彼の表情は前髪で隠れて窺えない。緑谷はため息を飲み込む。
自分と轟。素地も努力も差はあれど同じ人間種である以上、体感温度は変わらないはずだが、彼のこの涼し気な顔はどうか。炎天下など全く意に介していないように見える。つんと高い鼻梁に続く引き結ばれた口もとは、おまえと話すことなどないとでも言いたげだ。…元いじめられっ子の卑屈な感性が内心に兆すと、尚更話の接ぎ穂もなかった。嫌な感覚を追い払おうとリュックの紐を握りしめて頭(かぶり)を振る。鼓膜を埋め尽くす蝉の声に気まずさを溶かしこもうと努めた。
轟とは知り合って数月、無口な彼と友人めいた会話をかわしたのは数えるほどだ。それにつれて、彼の無愛想は敵意や嫌悪ではなく、単純に無駄話を避けるがゆえとわかってきた。そしておそらく、その性質の多少は家庭環境に起因しているということも。
…体育祭のエンデヴァー。その威圧を脳裏に蘇らせながら、足下の砂利をスニーカー越しに踏みしめてみる。今横に立つ轟は、あの男の期待と重圧を全身に受けて生きてきて、これからも生きていく。そんな人生、彼の岐路を、できるだけ具体的に思い描こうとしてみる。けれども平凡な親に団地育ち、元々無個性の自分には毛頭縁のない世界で、輪郭線も覚束ない。
「おい、緑谷。大丈夫か?」
 低い声に、足元の砂利からはっと目を上げると、轟はこちらを向いていて、気遣わしげに眉根を寄せていた。返事を一瞬出せないでいると、彼は「あちぃよな。」と呟き、視線が交錯する。学校でもメディアでももてはやされている整った顔だちだ。不揃いな色の目。火傷跡。以前、母親に煮え湯を浴びせられたと言っていた。前髪が長いのはそれを隠す為か。しかし、それをそのまま訊くわけにもいかないだろう。轟といると、口に出せない疑問や言葉がぼんやりと胃のあたりに溜まっていく。一線の向こうに踏み入るのは、許されるのかそうでないのかわからず躊躇ってしまう。そういう領域が彼の周囲には何となくある。かっちゃんとはまた違う種類のバリアだ。
「…なんかぼんやりしてんな。そこ座ってろよ、緑谷。あ、でも、きたねぇか」
 轟の表情も声の調子も相変わらず乏しいが、心配してくれていることは伝わってきた。停留所とは名ばかりの野晒しのベンチは彼が言及したとおり風雨に汚れている。突然、ぱりぱりと乾いた音と共に轟の左半身から氷が作られはじめ、鞄から取り出したタオルを瞬時に湿らしていった。そのまま轟は軽くかがみベンチを拭き出した。小さな尻とすらりと伸びた足、引き締まった体躯は制服越しにもよくわかる。それを、ぼんやりと眺めている。いつもなら平気だよありがとうとか、いやいや全然大丈夫とか、いくらでも口をついて出る言葉があるだろうに、今の自分は何だろう。なんだか頭の芯がぼやけて、ただ黙って彼の動作を見守ることしかできない。妙に顔が火照るし、思考が霞む。たしかに少しおかしい、かもしれない。
「緑谷。ほら、これ。持っとけ」
拭き終わった轟は、緑谷を振り返ると、一握りの氷を差し出してきた。何も言えないまま受け取ると、刺すような冷たさが指先に伝わる。その拍子に轟の半身の冷気が火照った体をかすめ、それは驚くほど心地がよかった。思わず開けた口からも瞬時に霜の立つような空気が入り込んで、肺を満たす。
「……」
「、おい」
緑谷の足から力が抜け、轟にもたれ掛かる。彼の肩が頭をかけるのにいい位置にあり、意識する前に顎を載せるように体重をかけた。しんしんと伝わる冷気が、身体に纏わりつく過剰な熱を撫ぜるように払う。戸惑っているだろう轟が、しかし、腕を背中に回してくる。慣れない手つきで、しかし気遣わしげに何度かさすられる。擦られた緑谷は、轟の掌から伝わる冷気にただ陶然とする。
「…気持ちいいか?」
耳もとで轟の唇が動き、言葉もなくこくりと頷いた。轟も頷き返して、暫くその体制でいた。しかし、ふと、やはり立ったままでは緑谷の負担は大きい、と思う。その判断まで間があいた自分を、轟はやはり半人前だと思う。そもそも緑谷の不調に気づくのが遅れたことが、そうだ。
「…ほら、立ってないで座れ。くっついててやる、から」
不器用に緑谷をベンチに導いて、もたれ掛かる華奢な体の隣、支えるように腰を下ろした。轟自身も先程感じたことだが、自分たちの身長差だと、ちょうど緑谷の頭の位置に自分の肩が来て、意外と体勢がしっくり決まる。
かえって緑谷を冷えすぎさせないよう、慎重に半身に意識を集めた。そばかすの浮いた頬の火照りや、額の汗を観察する。軽い熱中症だろうか。ぱっとみても小柄な体は、もたれかかられるとよけい華奢さがわかる。それなりに鍛えてはいるが元々の骨格自体が細いようだ。大きな目や髪質も相まって印象は幼げだ。頬のそばかすもそれに拍車をかけている…ような気がする。はっきりとはわからない。人の顔に気を付けることなどあまりなかったから、大した判断基準がない。美醜すらどうでもよかった。特にクラスメイトの顔なんて。そんな時間も余裕も、自分には存在しないし許されもしないと思っていた。鍛錬と憎しみばかりが張り付くように視界にあった。そんな捻ねた根暗い心を力ずくでこじ開けて、緑谷は飛び込んで来た。だからか。だから意味もなく、彼ばかり見る気になるんだろうか。わからなかった。
じわじわと蝉がうるさい。山特有の緑は夏の盛りに深く濃く、抜けるような蒼穹の大半を埋め尽くしている。肩にもたれた小さな男の髪と近い色だった。緑に埋め尽くされる。あるいは緑谷に。馬鹿なことを考えているな。轟はそう思う。
(バスいつ来んのかな)
時刻表によればとっくに来ていていいはずだった。田舎のバスは時間どおりに来ないと知りながら焦れていた。緑谷に飲み物でも買えたらいいのに自販機の一つもありやしないのだ。自主練に持参した水筒はとっくに空っぽだ。苦肉の策で、仕方なく個性で氷を何粒か作り、掌に乗せて溶かしてみる。割合早く両手に水が満ちた。
「…緑谷。ちょっと汚いかもしんねえけど、無ぇよりマシだと思う。飲めるか」
口から出る言葉は我ながら愛想も会釈もなく、われながら僅かにうんざりする。緑谷は目をつむったまま、返事というより唸り声を出した。合わせた手をそのまま緑谷の口許に持っていく。苦しげな様子ではあったが、彼は喉を鳴らして轟の水を飲んだ。飲みやすいよう手の角度を調整すると、指の腹が緑谷の唇に触れる。瞬時に頭に浮かんだ言葉はわりぃ、だったが、今の緑谷にそんなことに気のつく余裕があるわけがない。そもそも何故男同士でそんなことを気にする必要があるのだろうか。のぼせているのは俺もか? 冗談じゃない、今緑谷は病人だぞ、しっかりしろ。馬鹿みたいな己を叱咤する。水を飲みきった彼は大きく息をつき、薄く目を開いた。その顔を轟は覗き込む。まだ少し顔色が悪い。
「大丈夫か?」
「……ん、あり、がと」
小声に返事があった。それに少し安堵して、虚ろな目を眺めて、頭の中の言葉を探す。
「氷やるからそっちの頬に当てとけ」
「うん」
「…無理すんな」
「うん…」
蝉の声が耳を聾する。氷じゃない方の半身が暑いというより熱いように思う。そばかす。まつ毛。体調の悪い相手をじろじろ見てはいけないと思いながら視線がそちらに行ってしまう。緑谷が、ふう、と大きく息を吐いて、
「…ありがとう、轟くん。だいぶ楽になった。とても涼しい。君のおかげだ」
「そうか。多分熱中症なりかけてたぞ。気をつけろ」
「あ、そっか、これ熱中症か。救護の授業でやったなぁ。だめだよね、ヒーローが助けられてちゃ世話ないな」
たしかに回復してきたらしい。表情も口調もいつもの雰囲気が戻ってきた。ふんす、と鼻息を吐いて、しっかりしなくちゃね、と前歯を見せて笑う。あどけないえくぼが頬に浮く。心配をかけまいとしているのかもしれなかった。その気遣いの必要はあるかどうかわからない。それを穿つように、この優しい男を見ている自分は何なんだろう。
「…ま、ヒーローでも体調崩す時はあるだろ」
会話を切ろうと我ながらぶっきらぼうに言い捨てても、緑谷はめげずにはきはきと喋りかけてきた。一応病み上がりなのに大丈夫だろうか。
「いやあでもこれは正直情けないよ…、あ、にしてもさ、今っていうかさっきから思ってたんだけど、轟くんの個性はやっぱりすごいよね。強いのはわかってたけどそれだけじゃなくて、人命救助にも使えるんだ。現場での応急処置、例えば怪我や腫れを冷やしたり、熱や頭痛の氷嚢を作ったりさ」
「…あぁ、考えてみりゃそういうこともできるんだな」
「うん、素晴らしい個性だよ!」
 これまでも思った事があるが、緑谷は人の個性になるとテンションが上がる。理由はわからないがやけにはしゃぐ。子供っぽいと感じさせるほど他意がなく無邪気だった。人の個性を見れば私利私欲に使おうというやつも珍しくないのに、緑谷からはそんな打算は一貫して窺えない。ただ純粋に、好き、なのだろうか。他人(ひと)の、個性が? 不思議な感覚だと思う。さっきまでと打って変わって爛々とした目で見つめてくる緑谷に、そんなことを考えつつ、返す言葉を探した。
「まあ、確かにいろいろ使えるのかもな。言われてみたら簡単なことだけど、今まで親父に、個性を使うって言えば、戦うこと、勝つことって叩き込まれてきたし⸺いや、多分これは違う、な」
 身を乗り出していた緑谷には、自分にはうかがい知れぬ思いに耽りながら話す轟の目が険を帯びたのが見て取れた。そういえばここまで至近距離で彼と話したのは体育祭以来だと思う。ふたつ、並んだきれいな色違いの目が如実にわかる。グレイと水色。彼らしいクールに澄んだダークトーンだ。
「単に俺が考えてこなかっただけかもな。認めたくはねぇけど、どっかで一番楽だったのかもしれない。ひたすら親父を憎んで、戦うだけだったのが」
 轟のきれいな瞳の奥に今よぎっているものを、洩れだすような言葉を聞くにつれ、緑谷はなんとなく分かるような気もする。葛藤であるとか、恐怖だとか。つい数月前の自分にとっても、オールマイトに言われてヒーローへの道を選ぶのは、一世一代の決心だった。悪い病気みたいに燻らせた憧れへ踏み出すのだって、恐い。その上轟の場合は、自分一人だけの話ではない。強大な父親を始めとして、家族まるごとと向き合い、進むのだ。
「あの、僕なんかが言うのはおこがましいけど…でもさ、これまでと違う道を選ぶって、本当に難しくて勇気がいることだと思う。それができた轟くんは…やっぱ凄い。尊敬するよ、僕は君を、改めて」
「そういうのはいいって」
 緑谷はいいやつだ。轟は思う。元気づけようとしてくれているのは伝わる。それは善意なんだろうし、クラスメイトとしても人としても、優しいやつだ。多少お節介であるにしたって、ヒーロー志望ならむしろ適性なのだろう。それは解っていて、しかし、個人的な事情に触れられるということに馴れていない神経が一瞬ひりついた。思わず撥ねのけるような言葉になったのを気づいたのはそれを発してからだった。一瞬空気が軋む、緑谷は気遣うような高い声をだした。
「あ、ごめん、おせっかいだった、かな」
「あ、いや……嫌、って意味じゃねえんだ」
 せっかく喋れていたのに、気まずくさせてしまったと轟は思う。その一方で、まだ本調子でない緑谷をあまり喋らせないほうがいいのではないかとも思う。そのニつの気持ちをうまく言い表せる言葉がないものだろうか。愚直にしばらく探して、難しいなと思う。自分の返答を待っている緑谷にも悪い。結局、口癖に逃げた。
「…わりぃな。俺、慣れてなくて」
「そんなの、全然大丈夫だよ」
「すまねぇ。平気か? 体調」
「もう気にしないで、ほら、もう僕全然元気だからさ!」
 力こぶを作るような仕草をして、緑谷は明るく笑った。それならよかった。そう言いつつ、やはり邪気のないアピールに思わず顔が綻ぶ。緑谷がふっと不思議そうな表情になり、一瞬視線が合った。にやけづらになっていたら嫌だったから顔を逸らすと、やっと、こちらに向かって走ってくるバスが目に入った。ほどなく肩を並べてあれに乗るだろう自分たちを、ぼんやりと思い描く。それから、来たぞ、と小さく教えてやった。











(2022.10.01 pixivに投稿
 2022.10.02 サイトに転載)
12697字